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末吉日記

マンガとアニメのレビューとプリズムの煌めき

アイカツ!85話「月の砂漠の幻想曲」 そらの理念、蘭の実践

 アイカツ!85話「月の砂漠の幻想曲」は私の大のお気に入りであるキャラクター、風沢そらがメインで活躍する回なのだが、このエピソードを初めて見終えた時に胸の内に生じた感慨は「不安」であった。どうにも腑に落ちない、奇妙な回のように感じられたのだった。私の85話ファーストインプレッションはこんな感じだった。

 

 

  61話については以前別の記事で書いたが、61話から私が読み出したこととは、風沢そらにとって自由と孤独が根源的に一体であることだった。そのそらの抱える命題が、この「いつまでも二人は幸せに暮らしました~Fin~」とかんたんに解決に至ってしまうような描写には抵抗感を抱かざるを得なかった。

 そのもやもやを解消すべく85話を幾度かつぶさに観返し、自分なりにこのエピソードを分析した結果、このエピソードを切り崩す助けとなる一本の筋を見つけることができた。その筋とは、風沢そらがもつフェミニズム観である。

 85話とはそらが自らの信念に気づき、それを貫こうとする物語として読めるが、その信念とは自らがなりたい「お姫様」の在り方にまつわるものであり、そしてそらによる姫の衣装のデザインには、女性を開放しようとするフェミニズム的文脈を読むことができる。このそらとフェミニズムについて、この記事では詳しく語ってゆく。

(17/4/29 編集)

 

 

 風沢そらは姫のドレスを二回デザインするが、その一回目のデザインに影響を与えたものとして、そらの机の上にはイスラム圏の女性の服装について書いた本が置かれている。

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 「イスラム圏の女性は、頭を含めた体全体を隠す服装をすることが多い。衣装の種類としては、アバヤ、ヒジャブ、ニカーブなど、様々。」とある。ひとまず、この書籍がどのような文脈でエピソードに現れたかを見てみよう。

 Bパート・アイキャッチ直後、ドリームアカデミーのそらの部屋で、そら、きい、セイラがそらのドレスのデザインについて話しているところでこの本は映される。その前のそらたちのやり取りは以下の通りである。

(そらが女剣士と姫の衣装デザイン案のイラストをセイラときいに見せる)

 きい 「姫のドレスはひらひら一杯で可愛い」

 セイラ「そらがこれを着たら本物のお姫様みたいに見えるんだろうな」

(そら、曇った表情で机へ向かって歩き出す)

 そら 「お姫様か…」

(そら、机の前で立ち止まり、首だけ振り返る)

 そら 「二人の中のお姫様ってどういうイメージ?」

 セイラ「それは…美しくて清楚で可憐で」

 きい 「守ってあげたいってイメージ」

 そら 「そっか…」

(そら、曇った表情で机に向き直る)

 そら「色々調べてイメージ通りのドレスが出来たはずなのに」

(いくつかの資料が並ぶそらの机の上が映される。イスラム圏の男性の服装、女性の服装についての本がそれぞれ映される(前掲のカットはここである))

 そら 「私のなりたいお姫様って…」

(そらの悩み顔がアップになる。場面転換)

 

 このシーンのつながりと台詞のやりとりから、そらの言う「イメージ通りのドレス」とは、セイラやきいが思うような「守ってあげたい」=被庇護者である姫のイメージにそぐうものであり、かつそれが、そらのもつ「イスラム圏の女性のイメージ」と重なりあうものであることが示されている。そらは被庇護者の姫のイメージ通りのドレスをデザインしてみせるが、そのデザインには納得していない表情を見せ続ける。

 最終的にはこのデザインは破棄され、新たなるドレスがデザインされる。殺陣に打ち込む蘭の姿に感銘を受けたそらは、「一緒に戦うお姫様」のイメージを基にドレスをデザインし、オーディションでそれを着ることとなる。

 この新たなるドレスと、そらが最初にデザインしたドレスとを比較してみれば、そらがデザインの過程でどのように思考したのかがわかるはずだ。更に加えて、ドラマの企画書に載せられていた姫のイメージ画も合わせて比較することとしよう。企画書の画とはクライアントが用意したものであり、つまりクライアントの求めているお姫様像を如実に表しているものであるため、そらはこの画も参考に初めのデザインを組み立てたはずである。企画書のイメージ画、第一デザイン、最終デザインの順に並べ、それぞれ比較してゆく。

・企画書のイメージ画像

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・第一デザイン

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・最終デザイン

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 まず企画書→第一デザイン間の違いについてだが、ノースリーブ・へそ出しと企画書の姫のドレスは露出が強めであるが、そらの描いたデザインはそうではない。そらは本から得た「イスラム圏の女性は頭を含めた体全体を隠す服装をすることが多い。」という情報を参考にしてこの露出の少ないデザインを固めていったものと思われる。そらのデザインのドレスは袖も裾の丈も長く、企画書では半透明だったヴェールも、不透明なヒジャブへと変えられている。

 そして第一デザイン→最終デザイン間では、ドレスの袖と裾が短くなり、髪を隠すヒジャブも取り去られているという変化がある。そらは「守られる姫」のイメージからの脱却を企図してデザインを変更したわけだが、このたくらみを、女性は体と髪を隠すものというイスラム圏の規範から外すことによって達成しようとしたというわけだ。

 つまりそらは、イスラム圏での女性のドレスコードを一度は意識して第一デザインを描いたが、後にそのコードを意図的に破ったドレスをデザインすることによって「守られる姫」像を棄却し、「女剣士に憧れ、近づこうとする姫」像を表現しようとした。「世間の姫のイメージ」と「イスラム圏の女性」との間に「守られる」存在という共通のイメージを見いだし、守られるばかりであった姫を、ヒジャブを外すことによって解放するように表現したのである。

 

 このそらのデザインを、西洋的フェミニズム理念のあらわれとみることが可能だろう。イスラム教徒の女性のヒジャブは女性を守るために必要である、という考えはイスラム社会においては一般的なものだ*1。それを西洋的なリベラル・フェミニズムの視点から解釈した結果、ヒジャブはイスラム社会による女性への抑圧のシンボルとして取り扱われることとなった。フランスにおけるブルカ(髪を隠す布の一種、目さえも覆い隠すもの)禁止法が2010年に制定されたのは記憶に新しいが、この法制定の根拠はライシテ(フランスにおける世俗主義、公共空間における非宗教性の追求)の概念と、女性解放の文脈の二本柱であったようだ*2。しかしこのブルカというシンボルだけを槍玉に挙げるやり方は疑問視もされている。女性のブルカを禁止しても、女性にブルカの着用を促すコミュニティの思考体系が変わらない限りは、かえって女性を家に縛り付けることとなってしまう、という批判もある*3

 このフランスにおけるブルカの話がアイカツ85話にどう関わっているのかについてであるが、風沢そらのデザインには、女性に課せられた固定観念からの解放という意図があったことは前述した通りである。そしてそらは、それをより力強く表現するために、そらは剣を持って戦うお芝居をする。このお芝居に対して、ジョニーは「そんなへっぴり腰じゃ野菜も切れナッシングだぜ」と揶揄し、殺陣の師範は「しっかりアクションを仕込む時間は用意してくださいよ」と皮肉めかして言うのだ。これらの描写から、そらの表現しようとしたフェミニズム的理念は、ドラマの製作者にとって権威的である、アクションを中心に評価する価値観においては取り沙汰されないものであることが示されている。ここに、ドレスというシンボルのみを取り扱ってきたそらの弱さが描き出されている。ドレスのデザインを変えたところで、ドラマのオーディションはそれを評価する視点を持たず、それゆえにそらの殺陣の稚拙さだけが浮き彫りとなり、厳しい批判にさらされてしまうのだ。

 この構図こそが、ブルカというシンボルのみをやり玉に挙げることでは、イスラム社会の男性本位さに対するクリティカルな批判とならないという、先に挙げたフランスの事例とぴったり重なるものである。イスラム女性がライシテの理念を受け入れブルカを外そうとも、彼女の属するコミュニティがその姿で外へ出ることを許さなければ、結局のところその平等の理念は実践され得ないのである。

そらはそのフェミニズム的理念をデザインとして表現すること、世間に問うことまではできたのだが、それをドラマという、異なる評価軸が支配的である領域において押し通す、実践してゆくだけの力は持っていなかったのだった。

 そのそらを助けるのが紫吹蘭である。蘭はアクション本位のドラマ価値観の中でオーディションを勝ち抜くために修行を行った。重要なのは、その修行の過程でこれまでモデルやアイドルとして蘭が表現の根幹としてきた「ウォーキングの立ち姿」と「ダンスで鍛えたステップ」が師範によって厳しく否定されている点だ。蘭はこれまでモデルとしての長いキャリアの中で美しさの表現に磨きをかけてきたが、その女性的魅力の発露は、ドラマの殺陣においては抑圧されるべきものであるということが師範によって示される。この女性的魅力の抑圧は、そのままヒジャブというモチーフに結びつくものである。女性的魅力を抑圧しようとする力が、蘭には殺陣における論理として、そらにはドレスコードとして、目の前に立ち現れてきているわけである。

そらはヒジャブを廃するというアプローチを取ってこの抑圧に抵抗するが、蘭は殺陣の論理を受け入れて殺陣の精進に努める。蘭は師範の言いつけを守りながらオーディションを進めてゆくが、最後の最後で「魅惑の刃・幻想剣」によって、蘭はずっと押し殺していた自らの女性的魅力を爆発させてみせる。幻想剣とは次のような技だ。

(剣をS字を描くように振りながら)

蘭   「魅惑の刃!」

(発光する剣を大上段に構える)

蘭   「幻想剣!」

(ポーズを決めながら静止。ジョニー驚いて目を見開く。蘭、跳躍。ひねり回転を一回転。ジョニーは見とれている)

ジョニー「ビューリホー」

(蘭、両手で剣を握る。ジョニー両手を広げて)

ジョニー「ワンダホー」

(蘭、剣を振り下ろしながら)

蘭   「これで、終わりだ!」

ジョニー「アンビリーバボー」

(ジョニー、光の粒となって消失)

 このポーズを決めながらの静止からはモデルで鍛えた立ち姿が、跳躍して回転する動きからはダンスで鍛えた身体表現力が示されているといえるだろう。DCD版のムービーでは剣をS字に動かし技名を叫ぶ→暗転に剣戟のエフェクト→チームアピールチャンス→ジョニー倒れる というシークエンスになっている。このことからも、幻想剣は殺陣とアピールの複合によって繰り出される技であり、ダンスなどのステージと共通の要素が盛り込まれた技であることを確かめることができる。

  蘭の女性性の魅力がそれを抑圧してきた論理である殺陣と結びついて花開き、その論理を押し付けてきた存在であったジョニーを、師範を圧倒するという展開。この蘭の行動を、社会を支配している規範の内側から女性を解放していく、女性解放のひとつのプロセスとして読むことができる。

 そらの理念的-デザインと蘭の実践的-殺陣とダンスの融合、という対比、そしてその両者が手を取り合ってゆくことによって、「守られる姫」という課題は解決される――これが85話で語られたことである。そして、その課題についてはオーディションの後に、どう解決されたかが示される。写し出されるのは大きく引き伸ばされたドラマのポスターだ。

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 姫が女剣士に守られる構図である。

 結局、そらの「守られる姫」像からの脱却という理念は、監督に「面白い」と言わしめるには至ったが、ドラマの全体的な方向性までは変えることはできなかったということである。このポスターが、先にあげた企画書における剣士と姫二人の構図とそっくりそのままであることからも、現実は一朝一夕には変わらないという重い結果が読み取れる。

 だが、それと対称的に、続いて流れるドラマのラストシーンと思しきカットは希望に満ちあふれたものである。

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 手を取り合って、幸せそうにどこまでも飛んで行く二人。しかし、そらと蘭の声には、劇中劇性を強調するように、スピーカーから流れるものであるように聞こえるような音響エフェクトがかけられている。これは虚構性を強く演出するものといえるだろう。変わらない重い現実と美しい虚構の対比。しかしその虚構は虚構であるがゆえに、純粋な祈りとして受け止めることができる。理念と実践をそれぞれ備えた二人の女性が手を携えて三日月と星空の夜をどこまでもゆく。自由に解放されて幸福な女性たちの未来を、アイカツ85話という物語は深く願っているように思えてならない。

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その他もろもろ

スターライト学園で蘭が特訓する際、かえでが斬りかかって来た時だけ、蘭は笑みを浮かべる。

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 なぜ蘭はかえでに対してのみ笑みを浮かべたのか?これを読み解く鍵はJAKにて師範にダンスのステップを批判される際のシークエンスにある。

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いちご「かっこいい!なんだかダンス踊ってるみたいね」あおい「うん!」

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あおい「ウォーキングで鍛えた立ち姿もキマってる」

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師範「ストーップ!」

 ここでは画面が揺らされ、師範の批判が非常に強いものであることが演出されている。

 この批判の後、蘭がすり足で移動するように矯正されているカットが入る。跳躍→すり足という対照。

 蘭にとっての「跳躍」はダンスと結びついた行動であることがここからわかる。つまり、かえでが斬りかかってきたときに笑みを浮かべたのは、かえでの斬撃に対して「跳躍」して避けた、禁止されたはずのその跳躍の楽しさから、つい笑みを浮かべてしまった、というのが理由ではないだろうか。そしてそれは、蘭が幻想剣を、高々とした跳躍で舞い上がりながら笑顔で放つことへの伏線でもあるだろう。

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幻想剣!

 

 オーディション直前、師範に対する二人のお辞儀の角度の違い。

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 そらは軽く目礼、蘭は最敬礼している。師範というドラマ的(=女性抑圧的)価値基準に対する二人の意識の対比として見ることができる。蘭はその価値基準を深く内面化しているのに対し、そらは比較的軽視している。そらは師範が何を言っているかよりも、それに対して蘭がどう応えたについて注目している。

 師範がオーディションについて説明した後、師範の「しっかり見せてもらうぞ」の台詞に対して、蘭は「はい!」と応える。するとそらは蘭の方を向き笑顔を見せる。

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 そらが、蘭が殺陣という自分のメインフィールドではない新しい場所で輝こうと頑張っていることについて、好ましく思っていることがわかる描写だ。

 そらが蘭に向ける好意は、そらが蘭の殺陣の特訓を見ているときに生まれたものである。この好意がどのようなものかについては解釈の幅があるが、剣士という本来男性的である役割を蘭が努力によってつかもうとしていることに対する好意として捉えられると私は考えている。ジェンダーの壁を越えることに対して、そらは非常に好意的である、ということだ。そして蘭に感化されて、そらもまたジェンダーの壁をドレスのデザインによって越えようとするのだ。

 

 61話においては空が重要なモチーフとして描かれた(61話の記事を参照)が、85話においてもそらが魔人ジョニーの封じ込められた瓶を開けた後の空がそらの髪色と重なる「ボヘミアンスカイ」色であるなど、共通のモチーフを用いていることがわかる。61話も85話も近藤信宏による絵コンテである。

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風沢そらといえばモロッコであるが、モロッコの姫にLalla Aicha(1930-2011)という人物がいる。スルタン・ムハンマド5世の娘であり、国王ハサン2世の姉であるこの人物は、イギリス、ギリシャ、イタリアのモロッコ大使を歴任した人物であり、特にイギリスではアラブ出身の女性としては初めての大使であったそうで、TIME誌の表紙を飾るほど話題となったようだ。

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Nov11,1957,Vol.LXX,No.20のTIME誌表紙。ムスリム女性の解放という題がつけられており、手前の洋装を着て髪を露わにするプリンセス・アーイシャと、奥の全身を布で覆ったムスリム女性の対比が描かれている。

 彼女はモロッコの近代化のために女性の教育の必要性、婚姻関係における法的地位の改善を説き、女性解放に努めた。風沢そらの「姫」のイメージになんらかの影響を与えているのかもしれない。

 

 そらと蘭を西洋的フェミニストと実践的なフェミニストと読み替える読解を今回行ったけれども、実際のイスラム社会でもその両者の連携によるフェミニズム運動が盛んになってきているようだ。実践的というのはあまりぴったりくる言葉ではなく、しっくりくる言葉を見つけられないことにやきもきしているのだが、ここではイスラム主義を前提にして、クルアーンイスラムの古典的テクストを男女同権的に読解するという動きのことを実践的と呼んでいる。この動きは、イスラム教徒によるイスラム教徒のためのフェミニズムともいえるだろうか。エジプトのマラーク・ヒフニ・ナシーフ(1886-1918)に端を発し、現在も活動中である著名人としてはモロッコのナーディア・ヤースーン、アメリカ出身のアミナ・ワドゥードなどがこの活動を行っている。

 西洋的リベラルフェミニズムイスラム主義の連携について触れられている記事を2本紹介する。随分と遠くまで来てしまった感があるが、私はここに、アイカツ85話のテーマと共通する問題意識を感じている。

女性の価値が”男性の半分”しかない国 現地の女性活動家が語る、パキスタンのリアル|ウートピ

Fatima Sadiqi on モロッコの、ベールを被ったフェミニスト達 - Project Syndicate

 現実社会との対応といえば、インドネシアでの放送がどのようなものになるかについても今後注目したいところだ。そのまま放送されるのだろうか?→されたようだ(17年4月29日追記)

 

 当初この回サブタイトルを「月の砂漠の狂想曲(ラプソディー)」と書いていたが、正しくは「月の砂漠の幻想曲(ラプソディー)」であった。(指摘していただいた生姜維新さんには多謝申し上げます。)ドラマのタイトルは狂想曲であったので、てっきりサブタイトルも同じかと思ってしまっていたのだった。訂正ついでにラプソディー(rhapsody)について調べてみると、音楽ジャンルとしてのラプソディーに対応する語は「狂詩曲」である。一応ラプソディーを「狂想曲」と訳す例もあるようだが、狂想曲と対応する語はカプリッチオ(capriccio:伊)のほうが一般的のようだ。幻想曲はファンタジア(fantasia:伊)であり、アニメサブタイトル、ドラマのタイトル、どちらとも違和感のある形になっている。狂想曲にラプソディーという語を当てるのはそういう訳例もあるので理解できるが、幻想曲にラプソディーは、何らかの意図がなければまずやらないルビの振り方ではないだろうか。その意図とは何だろうか?

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 仮説をひとつ挙げておく。rhapsodyという語には、(…についての)高揚した感情の表現,熱狂的発言,情熱的な文章 という意味もある*4。85話に描かれる「高揚した感情の表現」といえば他ならぬ幻想剣のことであるだろうし、それゆえに「幻想」曲にラプソディーというルビが振られたのではないだろうか。

 

 

参考文献・URL

イスラームのフェミニズム│mukofungoj ĉiuloke

モロッコを知るための65章 私市正年、佐藤健太郎(編著)第57章「フェミニズム運動」 明石書店 2007年

*1:http://www.aa.tufs.ac.jp/~masato/harem.htm 飯塚正人 ハーレムの外へ ―北アフリカにおける女性の社会進出とイスラーム― より引用:「ムスリムは男女が同じ空間を共有することに異常なまでに敏感であるが、それはなぜか。ムスリム男性が公けに問われた場合、答えは決まっている。すなわち、イスラームは女性の体を傷つきやすいものと考え、これを男性から守るために隔離を実践してきたというのである。」

*2:ブルカをめぐる熱い論争(2): Mozuの囀「ゲラン議員のブログにあった決議提案文の中のモチーフを説明している箇所の訳」より引用:「イスラムのスカーフは宗教への帰属の明白な徴をなしていましたが、ここで我々はこうした実践の極端な段階を前にしているのです。これは誇示的な宗教的表明のみならず女性の尊厳、女性性の表明に対する攻撃であります。ブルカないしニカブを纏うことで女性は閉鎖、排除、屈辱の状態に置かれます。その存在すら否定されるのです。」

*3:ムスリマ(イスラム教徒女性)の衣装を法律で規制するべきか--イアン・ブルマ 米バード大学教授/ジャーナリスト | トレンド | 東洋経済オンライン | より引用:「なぜブルカを禁止するのが好ましくないか、もう一つ現実的な理由がある。真剣に移民の受け入れを考えているのなら、移民ができるだけ自由に公的な場所に出掛けることを奨励すべきだからだ。ブルカを禁止することは、女性を家庭に強制的に閉じ込めることになり、外部の社会との交渉を今以上に男性に依存させることになる。」

*4:rhapsodyの意味 - 英和辞書 - 英語辞書 - goo辞書