末吉日記

マンガとアニメのレビューとプリズムの煌めき

レストー夫人・きろくノート

レストー夫人・きろくノート  【2014-2-X】

 

レストー夫人 (ヤングジャンプコミックス)

レストー夫人 (ヤングジャンプコミックス)

 

 

  『レストー夫人』とは、三島芳治が雑誌『アオハル』及びWebサイト『アオハルオンライン』にて連載したマンガ作品だ。2014年5月に単行本化された。

 これは警告であるけれども、このレビューは『レストー夫人』を読了済みの方に宛てて書かれたものであって、本編を未読の方がこれを読むことは推奨できない。このレビューは私が『レストー夫人』をいかに読んだかという記録であって、あらゆるレビューがそうであるように、これはある種の二次創作としての性質をもつテキストだ。つまり、このレビューは私が語り直す『レストー夫人』という物語だ、ということもできる。もしあなたが『レストー夫人』を未読であるならば、あなたはそのオリジナルからあなた自身の『レストー夫人』を紡ぐことを薦めたい。今すぐブラウザを閉じるなり最小化するなりしてから、ゆっくり本屋へ向かうと良いと思う。きっと後悔はしないはずだ。

 

 

 

 『レストー夫人』とは何だろうか?ひとつは三島芳治による漫画作品としてのレストー夫人であり、またひとつはその作中に現れる劇の題であり、そしてもうひとつはその劇の主役の名前だ。レストー夫人を囲む世界がレストー夫人という劇であり、それを囲む世界もまたレストー夫人というマンガであって、レストー夫人∈レストー夫人∈レストー夫人。こうきたら当然レストー夫人をマンガとして読んでいる我々の世界もレストー夫人といえる、なんて言うと彼女は「冗談!」と言って笑うだろうか?

 レストー夫人は様々なかたちで描かれる。「人物」として。「劇」として。「衣装」ないし「模型」として。あるいは「記録」として。そして「マンガ」として。相異なる次元に存在する様々なレストー夫人。これらすべてが志野という人物を軸としていることに疑いはない。レストー夫人とは、志野であり、志野の物語すべてだ。

 志野は物語と現実の間に境界を持たない少女だった。志野は、物語の主人公の名前を自身の名前と置き換えて読み聞かせる読み聞かせメソッドによって育てられた。物語の中に自分を入れて、自分の中に物語を入れて。そう育てられたことによって、志野は「外の世界に出てもいつもお話の中にいるような気がして」しまうようになった。志野は自らが物語の中にいるのか、それとも現実にいるのかを区別する術をもたなかった。しかし、鈴木のきろくノートという、言わばノンフィクションのドキュメンタリーともいえるテクストを読むことによって、志野は「志野さん」として書かれている自身のふるまいや感情を知ることができた。志野は大きな好意を持って「スズキさん」という存在と、鈴木の書いた「きろくノート」を受け入れる。志野は自分の中に「スズキさんの記録の志野」を入れ、「スズキさんの記録の志野」に自分を入れながら、劇の練習をすすめてゆく。志野は志野自身が主人公となった物語のなかで歩み始める。

 

 一旦、視線を物語構造からマンガ描写へと移してみよう。私がこのレストー夫人で印象的に感じた描写が、P16下段のコマだ。地面すれすれの消失点へとパースがかかっている背景だが、背景の凸部分の地面と接する地点はコマ下部に横たわる線によってできた領域に隠されてしまっている。この線はいったい何だろう?P94下段の似た構図のコマと比較して見るとわかりやすいが、P16のコマの線は、この空間から整合性を奪う非常に不自然なオブジェクトである。しかも、この見上げる構図+線のコマは繰り返し現れる。P67上段、P89中段、そしてこの作品最後のコマ、P140。似た構図と言えそうなものにP25上段、P47下段、P53下段がある。謎の線が存在するコマを探してみるととても多くのコマにこの線が描かれていることがわかる。

 この線は何なのか。この線の正体は以下のものであると私は考えている。

【この線は、P137上段で描かれているような、「演劇を上演している舞台の手前の端の線」である。】

 その考えに則ると、前述のP16のコマは、【壇上の演劇を舞台の下方から見上げている(そのため死角が生じている)】コマとして理解できる。描かれたコマそれぞれが舞台上のワンシーンであり、特に舞台的であるようなコマには下線が引かれ、われわれ読者は観客として舞台を見上げることとなる。

 そしてこの『「線」=舞台の縁』という考えを敷衍すると、この『レストー夫人』というマンガ全体が、マンガであると同時に壇上で演じられている『レストー夫人』という「演劇」としての性質をもっている、ということがいえる。これはこのマンガの各章が「第n幕」と表記されることとも合点するし、そして、最後のページ・P140の大ゴマにおいて、志野の足元でこの「線」が途切れている意味を説明するためにも必要な考えであるように思う。

 物語の話に戻ろう。 

 第四幕『衣装係』において、石上は衣装係として、志野を「女子の模型」に似ていると認識しながらも、志野の本質を「怪獣(きめら)」であると思い込んでいる「ただの変わった女の子」と見抜いて、それを表現する衣装を作った。

 志野にとって一番怖いことは、「だれかに正体をあばかれること」だった。そして志野は石上の作ったキメラの模型を見て、「見事にレストー夫人の正体を見破ったのね」と石上に告げる。これは 志野が自身をキメラ=合成生物、つまり物語のヒロイン像の集合体でしかないと捉えていて、それを忌んでいることの証左だ。

 石上は衣装係を解任されるが、屋上で鈴木から投げつけられた「きろくノート」;「志野が主人公である物語」を読み、レストー夫人の模型の、もう一つの姿に思い至る。

 模型は怪獣(きめら)から少女の姿へと変化する。

 「いろんな女の子の寄せ集めの模型なんてなかった そう思い込んでる変な女の子が一人いただけだよ」

 「変な子…… 私が……?」「はじめて言われた」

 このやりとりで象徴的に描かれるのは、志野の一番の恐怖である「だれかに正体をあばかれること」の模型である、瞳。その瞳は本来黒いものであったはずだが、ここでは白く描かれている。それにより、志野が「恐怖」とは異なる感情をもって、この正体の暴露を受け入れたことがわかる。衣装係のはたらきによって、志野は微笑みながら、多くの物語に散逸していた自分自身をひとりの変な少女としてアイデンティファイできたのだった。

 公演を終えた人々。「みんな何かの役になって 終わるとまた元の役に戻る」というモノローグ。レストー夫人の劇を終えても、彼女たちの物語は続いていく。

 「何かの試験だったのかもしれない」

 志野の足元の線は舞台と観客を分かつ境界線だ。志野は線のこちら側にいる。

 志野はこの「線」に閉じ込められてきた。様々なコマで、志野はこの線の上に立ち続けてきた。それは志野が物語という枠の中にしか存在できない少女だったことと重なる。だが、ついに志野は、「こちら側」に、舞台の外側に立つことができた。自分自身を見つけた彼女は、観客として、読者として、物語に触れることができるのだ。

 

 

2014.7/15 改稿しました。