末吉日記

マンガとアニメのレビューとプリズムの煌めき

過去のアイカツ!記事の紹介

おかげさまでアイカツ!を読む ワークショップは大盛況となりました。ご登壇いただきましたしゅらさん、hegemonさん、ご来場いただいたみなさん、様々な面で協力してくださった視線と沈黙くんと大阪大学SF研究会に対し、感謝申し上げます。本当にありがとうございました。

 

会場で私が色々言ってたことの一部はブログで書いたことの繰り返しであったことも多かったですので、ワークショップの補足的な意味も込めまして、過去に自分の書いたアイカツ!に関する記事のうち、おすすめのものを5本選んで紹介してみることにしました。

 

 

氷上スミレが初めてのプレミアムドレスを得るため魔夜の屋敷を訪れる108話についての考察記事です。タイトルにもなっているリンゴというモチーフが108話においてどのように物語に組み込まれているかについての考察から、ユリカ=白雪姫、スミレ=女王という、白雪姫の童話との対応があることを明らかにし、その引喩の巧みさについて解説しています。

 

風沢そらが初めてメインキャラクターとして登場し、ボヘミアンスカイを立ち上げる61話についての考察記事です。ブランドの立ち上げに伴い生じる、そらを悩ませる二つの責任のうち、アイドルを輝かせる責任については61話中で葛藤の解決が描かれているが、デザインを不自由な境遇で続けなくてはならなくなる責任については解決されないまま(=葛藤を抱えたまま)そらは前に進んでいるという分析を、ミミの二つの旅立ちのカットを対比ととらえることによって成立させています。

 

 

いちそら論についてはたくさん記事を書きましたが、これが最もとっつきやすいものになっていると思います。62話(2期のクリスマス回)における風沢そらの発言が32話「いちごパニック」における天羽あすかの発言とまったくの同質なものであることを指摘し、そこから天羽あすかが星宮いちごをアイドルとして強く求めたのと同様に、風沢そらもまた星宮いちごをアイドルとして強く求めていたのだと結論づけています。

 

 

WM論です。WMという二字には美月とみくるの二つのMという意味以外にも沢山の意味が重ねられています。100話と173話に立ち現れるWMのシルエットを軸に美月の物語を概観します。

 

 

アニメではなくコミック版の紹介記事です。ある短編を詳しく読んでいく記事なのですが、本当に最初読んだときには感動して興奮がおさまらなかったくらい素晴らしい短編でした。ぜひぷっちぐみベスト・アイカツ!まんが&まんが家カツドウ!を読んで下さい。

『アイカツ!を読む』ワークショップ開催のお知らせ

来る4月30日、大阪大学ではいちょう祭という学祭が開催されるのですが、そこで、わたくし末吉は、大阪大学SF研究会のご協力のもと、『アイカツ!を読む』と題したワークショップを開催いたします。

アイカツ!についてのアツい思考が盛り込まれた同人誌を出されたお二人を登壇者としてお招きし、お話を伺い、ディスカッションを行って、アイカツ!に関する知見を深める会としたいと考えています。

 

f:id:yoshidastone:20170420200658p:plain

日時・タイムテーブル

大阪大学いちょう祭 1日目

2017年4月30日(日) 13時~15時半

第一部 『アイカツ!を読む』ことについてのトーク

13時~13時50分

第二部 アイカツ!を読んで生じた疑問点についてのディスカッション

14時~15時10分

質疑応答

15時10分~15時30分

場所・アクセス

大阪大学豊中キャンパス 共通教育棟B棟 B208

大阪大学SF研究会』スペースにて

f:id:yoshidastone:20170420192232p:plain

豊中キャンパス — 大阪大学

の「全学共通教育機構」の建物です。

 

アクセスは阪急宝塚線石橋駅か、大阪モノレール柴原駅から徒歩です。

f:id:yoshidastone:20170420192213g:plain

アクセスマップ — 大阪大学

 

ワークショップ開催に寄せて

アイカツ!」とはアーケードゲーム、アニメーション、ライブステージ、コミック、アパレルなど様々な領域にまたがって展開されてきたメディアミックス作品です。このワークショップでは主にアニメーション作品としてのアイカツ!を取り扱います。

アニメーション作品としてのアイカツ!はTVシリーズ全178話、映画作品3本からなる映像作品であり、178本のエピソードは2012年10月から16年3月までの3年半にわたって放映されました。

アイカツ!という作品はアニメに限っても膨大なテクストからなります。1話あたり24分として、178話で71時間を越える長さですから、この長大さゆえに、アイカツ!を鑑賞する人の内面には、アイカツ!を読み解くための固有の形式が醸成されてゆくものと考えられます。たとえるなら、巨大な氷河が大地を削り独特な地形を作るように、アイカツ!は鑑賞者を変容させてゆくでしょう。

この変容というものが、鑑賞者それぞれの個性を基に生み出されることに異論はないでしょうが、また同時に、その変容とはアイカツ!という作品が固有に持つ性質をも孕んだものとなっているはずです。

このワークショップは、アイカツ!をわれわれがどう読んできたかについて語ることを通じて、アイカツ!という作品をより深く知ろうとする試みであります。

第一部では、登壇者それぞれがアイカツ!をどのように観てきたかについて、自身の立場を示しながら語ります。ことによって、アイカツ!を読解する方法論の複数性と、それぞれの方法の功利について明らかになるでしょう。

第二部では、アイカツ!を読んでわれわれが行き当たった疑問点についてのディスカッションを行います。それぞれの異なる視点から得られた問いと答えていくことによって、より立体的なアイカツ!像を捉えることが可能になると考えられます。

ワークショップを通じて、アイカツを今一度深く読むことのきっかけづくりとなれれば嬉しく思います。

末吉

登壇者紹介

hegemon(@_hegemon_)

同人誌『アイカツ!全体主義合同』主宰

しゅら(@syura1357)

サークル『アイカツ大学』にて同人誌『詳説 アイカツアイカツ史A』発行

末吉 (@suekichi)

アイカツ!を読む』ワークショップ主催

 

hegemonさんの『アイカツ!全体主義合同』は、アイカツシステムを用いたアイカツがアイドルにとって表現を行うことのできるツールであるとともに、それを管理・運営する強大な権力が存在するはずである、という視点を軸にあつめられたマンガ、評論、小説からなる合同誌です。hegemonさんによる全体主義合同についての記事をご紹介させていただきます。

 

しゅらさんの『詳説 アイカツ史』は、アイカツ!の世界における歴史的な事実関係にフォーカスを当てて書かれた本です。アニメ本編やアニメ雑誌など周辺の資料から丹念に材を取り、主要キャラクターごとにそのキャラクターの歴史が詳細にまとめられています。また巻末の年表は、本編では断片的にしか語られなかった、いちごが編入する以前の時間を概観できるまたとない資料となっています。

 

それぞれ独自の視点からなる本を編まれたお二人に、『アイカツ!を読む』ことをテーマに語っていただきます。

私、末吉も、アイカツ!を読むことについて、当ブログで語ってきたことや、ここでは語りきれなかったことなど、いろいろとお話させていただきます。アイカツ!のことを深く考えたい、またはアイカツ!の話が聞きたい、アイカツ!の話がしたい!という方はぜひお越しになってください!

 

kira・pata・shiningといちそら

昨日Twitterにて次のツイートから始まって連なるいくつかのリプライをいただきました。

 

@suekichi 末吉さん、初めまして。いつもブログのいちそら記事、楽しく拝見しております。
突然ですが、末吉さんはキラパタシャイニングといちそらの関係についてはどうお考えでしょうか。そらマリの曲とされることが多いキラパタですが、いちそら的にも美味しい曲だと思います→

@suekichi 「人魚姫は綺麗な足になれた」の歌詞は明らかにいちごのことを指していると考えられますし、何よりDCD版でのMVではいちごとそらのCGが一緒に踊っています!!
一度考えてみてくだされば嬉しいです。もうとっくに言及してたよ、ならすみません…→

@suekichi お忙しい中見てくださってありがとうございます。突然すみませんでした。
いちそらはそら登場初期気になっていた組み合わせでした。末吉さんが言及してくださりいつも嬉しい思いをしております。
これからも応援しております!頑張ってください!

 (ツイート1/2/3

 

いちそらに想いを寄せる方がいらしたこと、拙ブログをお読みいただいていること、応援の言葉をいただけたことに深く感謝しながらkira・pata・shiningといちそらについてのお返事をしたためていたのですが、あまりにもtwitterで書くには長大になってしまったので、ひみゆりさんのご厚意によって、こちらのブログでの記事によってご返答差し上げるかたちを取らせていただきました。ありがとうございます。

 

そういうわけでkira・pata・shining(以下キラパタ)といちそらについてなのですが、私の解釈としましては、「人魚姫はきれいな脚になれた」を含む1番の詞は、いちそらというよりはむしろ、61話「キラ・パタ・マジック☆」と強く結びつくものとして捉えています。そして「私の恋」についての描写が深められる2番の詞においてはじめていちそらが前景化してくるのだと解釈しています。このテキストではそのあたりを詳しく取り上げていきたいと思います。

具体的にいうと1番の「人魚姫」というモチーフに61話性を見いだし、そしてそこで取り沙汰される「脚」のイメージをとっかかりに2番の詞を読んでいきます。

 

キラパタに出てくる「人魚姫はきれいな脚になれた」ですが、人魚姫の脚とはその童話を紐解いてみれば、人魚姫が自身の声を犠牲に捧げて得たものであり、そしてその脚で一歩足を進めるごとにナイフで抉られるような痛みを味わうような代物なわけです。キラパタにはさらっと出てきますが、かなりヘビーなモチーフです。

1番の詞の展開を追ってみますと、人魚姫が脚を得るとは「Changing」であり、すなわち「自分が変わる」ということであり、それはボヘミアの空へ飛び込む=自由を得る ということへと繋がってゆきます。つまり、自由を獲得するには犠牲・痛みが伴うということを、この曲は「人魚姫」という物語の引用によって暗示しているのであり、そしてその自由とそれに伴う痛みというテーマは61話でミミが自由な旅の中で新しい扉を開くことを恐れていた描写と密接に結びつくものです。

人魚姫は魔女の薬で得た脚で痛みに耐えながら歩むことを決意します。恐れを抱きながらもそらのファッションの魔法によって再び自由な旅を始めた、魔法によって「Changing」したミミこそが、人魚姫のイメージに深く重なる存在なのではないでしょうか。そして脚=自由を与える魔法を行使する海の魔女としてそらは描かれているのだと考えられます。

人魚姫といえば(2期までの範囲でいえば)たしかにいちごのマーメードピスケスコーデが真っ先に思い出されますが、振り返ってみれば1期の美月もまたマーメイドの名を冠するコーデを着ていたのですよね。

f:id:yoshidastone:20170116223550j:plain

マーメイドジュエルコーデを着る47話の美月です。このコーデは48話のアイカツ格言で紹介されているコーデでもあります。

f:id:yoshidastone:20170116224052j:plain

いちごと人魚姫の物語とのあいだにはさして響き合うところはありませんでしたが、47話で体調不良をおしてステージに立つ美月は、痛みを押し殺しながら脚で歩いた「人魚姫」と重なる存在として描かれていたといえます。

以前の記事において、61話のそら-ミミと劇場版のいちご-美月の関係性の相似について指摘しましたが、加えて二人の共通項として人魚姫のイメージと結びつく人物であるということが挙げられるわけです。更にいえば、47話の体調不良の美月とは、他ならぬ61話で、セイラが参照を促すような発言をしていた箇所でもあります。

そら「私はね、今まで作りたい服を自由に作ってきた。ほとんど趣味みたいにね。でも、ブランドを立ち上げたらそうはいかなくなる。新しい衣装を定期的に発表する責任が生まれる。たとえアイデアがなくたって、作らないといけないよね。お仕事だから」

セイラ「アイドルが風邪を引いても、ステージに立たないといけないのと同じか」

そら「うん。それが私にできるかなって思うし、(以下略)」

 61話は、不自由になることを受け入れながらブランドを立ち上げた風沢そらと、自由と隣り合わせの恐怖を見据えながら自由な旅立ちを選んだミミがかつて「ファッションの魔法」によって結ばれ、そして別れていたことを描く物語でした。犠牲を払いながらも前へと進んでゆくそらやミミと重なるように、体調を崩しながらもステージに上がった美月が参照されているのではないでしょうか。

 

そういうわけで私は、キラパタの人魚姫はいちごというよりはむしろミミ、ないし美月と結びつくイメージとして解釈したいと考えています。

以前は人魚姫だからいちそらという解釈をしていて、それに基づいたツイートなどもしていたのですが、最近考えが変わったところなので、こうやって改めて解釈を示す機会ができて本当によかったと感じています。

 

つづいて2番ですが、1番の歌詞で人魚姫と絡めて展開された「脚」のイメージは、2番ではいちど反転させた形で出てきます。「素足」というワードがそれであり、これは「人魚姫の脚」と対になる語と思われます。苦心して犠牲を払ってようやく得られる人魚姫の脚と、生まれつき持っているありのままの素足(=想像を越えた才能)という対比です。この素足を持つ人こそが「私の恋」の相手と思しき人物なのですが、これはどのような人物なのでしょうか。

この人物像と結びつく存在として登場するオブジェクトがカモシカです。彼の人は「風に吹かれてるカモシカのよう」と形容されています。しかしこの「カモシカ」ということばは非常にやっかいです。何がやっかいなのかというと、この「カモシカ」という語には、まったく別種である複数の種の生物が従属しているのです。

詳しくはWikipediaを読んでいただきたいのですが、ざっくりまとめると、

  • ウシ科ヤギ亜科かつヤギ族以外の生物→広義のカモシカ
  • ウシ科ヤギ亜科カモシカ族→狭義のカモシカ
  • ウシ科からウシ族とヤギ亜科を除いた残り→レイヨウ=羚羊(カモシカと呼称されることがある)

の3つが、カモシカと呼ばれうる生物のグループたちです*1

f:id:yoshidastone:20170116124130p:plain

これはWikipediaを参考にざっくり作った図です。ピンク色に塗りつぶされた部分がカモシカと呼ばれることもあるレイヨウ、黄緑から緑にグラデーションがかかっている部分が狭義のカモシカ、グラデーションがかかっているところを含め、黄緑色の部分が広義のカモシカです(いちおう断っておきますがこの図において面積にはなんの意味もないです)。以下括弧にくくられていないカモシカは「広義のカモシカ」を指します。

 

さて、kira・pata・shiningに現れる「カモシカ」はレイヨウとカモシカ、どちらのカテゴリに入るのでしょうか。

まず着目したいのは、「カモシカのよう」という句です。「カモシカのよう」とは、よく知られる「カモシカのような脚」という定型句を想起させる句であり、楽曲中で展開されてきた「脚」のイメージを改めて提示するものです。風に吹かれてる、という修飾から、自然の中に野生で生きる動物として「カモシカ」を登場させているようであり、その脚とは「素足でも美しく魅せる」といわれた「素足」に近しいイメージをもつものと捉えられます。

カモシカのような脚」というときの「カモシカ」は、平地を強力で特徴的なストライドで駆けることのできるレイヨウのことを指すというのが通説ですから、上図のピンク色の領域で示されるところにいるレイヨウこそが、キラパタの「カモシカ」に彫り込まれた陰影であると解することができます。

 

ただそれと同時に、レイヨウではない(広義の)カモシカという色彩を、キラパタの「カモシカ」に見いだすことも可能だと私は考えています。カモシカの多くは山地に生息し、その蹄の特性から崖を登ることを得意としています。アイカツ!といえば斧と崖であり、崖を登るアイドルといえば主人公たる星宮いちごでありますから、アイカツに登場する楽曲に崖登りを得手とする動物が出てきた場合、それを星宮いちごと関連付けて解釈することには一定の正当性があります。

この解釈にはいささか飛躍を感じられる方もいらっしゃるかもしれませんが、その正当性を示すひとつの傍証として、コミカライズであるところのぷっちぐみベスト!!まんが&まんが家カツドウ!の第7話「みんなでアイカツ!」を参照してみましょう。このエピソードはいちごがデザイナーズアクセサリーコレクションのアクセサリーを得るために、フランスの別荘にいる天羽あすかを訪ねるというものなのですが、その過程において、いちごたちはガケの上に建つあすかの別荘へ行くためにガケをのぼります。そこに、ガケをのぼるのが上手である動物としてヤギが、やや唐突に登場します。

f:id:yoshidastone:20170116180904j:plain

(ぷっちぐみベスト!!アイカツ!まんが&まんが家カツドウ!P69)

このエピソードでは、みんなを先導するように崖を登るヤギが、みんなを鼓舞しながら引っ張っていく星宮いちごと重なるように描かれているわけです。

f:id:yoshidastone:20170116184522j:plain

(同P69)

ヤギはヤギ族でありカモシカの定義にはあてはまりませんが、カモシカと近縁の動物ではあります。例えばシロイワヤギのように、分類学カモシカに含まれていてもヤギと名に冠するものも存在します。このヤギとカモシカの近縁性、また、アイカツ!においてはいちごとヤギとが皆を先導するように崖を登る存在として並置されうる、という2つのファクトを前提にキラパタを解釈すれば、「風に吹かれてるカモシカのよう」というフレーズの向こうに、崖を登りきったカモシカが悠々と風に吹かれている姿を見ることが可能であることをご理解いただけるものと思います。

以上をまとめますと、キラパタの「カモシカ」はレイヨウとしても広義のカモシカとしても解釈可能であり、そして、その脚に力を持つ才能あふれる人物、または崖を悠々と登り頂上で風に吹かれる人物のどちらに解釈したとしても、星宮いちごという人物が「私の恋」の想い人としてふさわしい人物として浮かび上がってくるのです。

くわえて2番の歌詞「媚薬をじょうずにお砂糖でくるみましょう」とは、エンジェリーシュガー(=砂糖)のクリスマスケーキを通じて、いちごへの愛情のこもったパーティーをデザインした62話のそらの行動と結びつくものである、という解釈をあわせれば、kira・pata・shiningのいちそら性というものについて一通り語ったこととなるかなと思います。

 

補足的に語るとすれば、ミツバチと、羽の音・周波数という波動性と恋愛を関係させる詞は、キラパタのみならずG線上のShining Sky(恋するミツバチの鼻唄)やハートのメロディー(恋のテレパシー送信するから ビビビッと受け止めてよ 君のアンテナで)に共通するということを指摘できます(アンテナとは電波を送受信する空中線であり、また昆虫の触角でもある)。このことから、たとえばハートのメロディーをいちそら曲と解釈する視座をもつことなどが可能になるでしょう。

まとめますと、1番はそらミミ、2番はいちそらという解釈で私はkira・pata・shiningを聴いています!ということでした。

改めまして、今回この記事を書くきっかけを与えてくださったひみゆりさんに感謝を捧げながら、この記事を閉じたいと思います。ありがとうございました。

 

17/2/24 一部改稿しました。

*1:Wikipediaカモシカの項をみるとシャモア族カモシカ属という分類が書かれているのですが、ヤギ亜科の項はそうなっていません。ヤギ亜科の項の方が参照している資料が新しいようなので、ここではヤギ亜科の項の分類に即して記述しました

アイカツ!61話再考 歪められたマラケシュ

この記事はいちそらアドベントカレンダー7日目の記事です。

www.adventar.org

昨日はお休みしてしまいましたが6日目は近いうちに何かしらの記事で埋めたいと思います。とかいっているうちにまた遅刻してしまいました*1

 

今日はいちそらアドベントカレンダーにふさわしくはないかもしれませんが、あらためて61話を見つめ直してみたいと思います。

 

風沢そらのヒストリーについてわかっていることは非常に少ないです。

  • 子供のころ海外にいた
  • 5歳のころにマラケシュでミミと出会った
  • 小学生のころ流行したドラマであるクールエンジェルスを全く知らなかった

本編から読み出せる情報はこれくらいです。クールエンジェルスを知らないのは日本へ帰国した時期を類推する材料になるかもしれませんが、単にお芝居への興味が薄いからかもしれません。その理屈でいえばそら同様にクールエンジェルスを知らなかったセイラもまた海外にいたことになります。

ちょっと話が逸れますが、私はセイラも幼少期を海外で過ごしていた可能性もあると思っています。セイラの両親が経営するカフェがオープンしたのは53話時点で「最近」のことであり、それ以前に両親が何の仕事をしていたかは不明です。セイラにクラシック音楽に関する英才教育を受けさせていたこと、カフェの名前が音楽用語であること(Vivo、活き活きと、活発に)、カフェにピアノが置かれていること、そしていちごが初めてセイラの母親と出会ったときにその声に魅了されていたこと(「わぁ、きれいな声ですね」)などから、両親は音楽関係、ことに母親は声楽関係の仕事をしていたのではないかとも想像できます。

音城家は海外を飛び回って音楽の仕事をしていたが、ノエルの体調の悪化が深刻になったため仕事を休んで日本でノエルの看病に集中するようになって、そしてノエルは小学校へ行けるほど回復したがまだ不安が残るため、家を離れずにできる仕事であるカフェを始めた、というバックストーリーがあったりしたのではないかと私は妄想しています。

 

さて、風沢そらに話を戻しますと、オフィシャルコンプリートブックには、「幼い頃は、母親と海外で暮らしていたそら。(P77)」という記述があります。二人で暮らしていたように読みたくなる書き方ですが、他に一緒に生活していた人物がいた可能性も捨てられない文面です。61話でそらの母がもう寝なさいと言いながら寝室の扉を閉めて別の部屋に向かっている描写からすれば、父親かだれかがいるリビング的な部屋へ向かってるような感じもしますが、あるいは書斎や作業場などの部屋へ向かって独りで仕事に打ち込んでいたのかもしれません。どちらにせよ二人で住むには広すぎる家のようには見えます。

そもそもなぜそらの親はマラケシュに住んでいたのでしょうか。政治の中心である首都ラバトや経済の中心であるカサブランカではなく古都マラケシュに住むというところから、そらの親がたとえば外交官や商社マンなどの仕事をするためにモロッコへ来たわけではないように想像できますが、それくらいの印象程度のこと以外は何もわかりません。

そらたちがどれくらいの期間マラケシュに住んでいたかは不明ですが、もし仮に数年にわたって住み続けていたならば、そらには初等教育が必要だったはずです。少し調べてみたところ、人口が過密しているマラケシュでは私立の小学校の倍率が高いらしく、入学するためにはフランス語の能力がそれなりに問われるようです。

公立の小学校であればアラビア語による授業が行われるようです。そらが公立か私立の小学校に通っていたか、あるいは家庭教師から教育を受けたりしていたのか、そらの受けた教育にはいくつかの可能性がありますね。このあたりはそらがミミと何語でコミュニケーションを取っていたのかという問題に関わってくるところでもあります。そらがミミとフランス語でコミュニケーションを取れていたならば私立の小学校に通えるでしょうし、そらが日本語しか話せずミミが奇遇にも日本語話者であったというパターンならば、学校に通うのは難しいでしょう。

そらとミミとの会話にはクシュクシュ、ふわふわ、キラキラ、パタパタといった日本語のオノマトペが頻出しますし、それがそのままそらの呪文と結びついているわけですから、61話の表現をベタに読めばそらとミミとは日本語で会話していたということになります。しかし、ミミが客に向かって呼びかける「よかったら見ていってください」が日本語であったというのは考えにくく、おそらくここでミミが用いた言語はモロッコでよく使われるアラビア語、モロッコ方言ないしフランス語であり、かつ映像の繋がりからいってそらの理解できる言語であったと考えられます。つまりこのシーンでは言語に関して何かしらの嘘をついているということであり、ソリッドな解釈は不可能で、言語は不定ということにしかなりえません。

アイカツ!にはいちごの話す、日本語とちゃんぽんになっているジョークのような英語という形で異言語との接触をおもしろおかしく描く箇所もあるのに、ここでは言語の多様性から逃げるような描写になっていることに、わたしは多少の苛立ちを感じます。なぜ英語にのみ特権的な位置を与えているのか?と。

そういうわけでこの会話が何語でなされていたかは不定なのですが、私は個人的な――あくまで個人的な理由によって、そらとミミはフランス語で会話していたと考えたいと思っています。

 

なぜフランス語が好ましいかというと、モロッコがフランスの植民地であったという事実を重視したいからです。アイカツと植民地支配とは一見結びつきにくいワードのように思われるかもしれませんが、141話においてスペインにルーツを持つ紅林珠璃とスペインの植民地であったメキシコの物語が、149話において紅林とスペインの旧植民地であるフィリピンにルーツを持つムレータ淳朗の物語が描かれたことから、アイカツ!という物語が植民地支配、帝国主義に対するなんらかの視線を投げかけているという読解にはある程度の蓋然性があります。

そして、私が61話に関して考えているのは、その帝国主義を支える言説であるオリエンタリズムを61話ははらんでいる、ということです。61話は素晴らしいエピソードではありますが、しかし同時にそのオリエンタリズムに対しては批判されなければならないと考えています。

61話は日本人である風沢そらと、おそらくは欧米から来たのであろうヒッピーのミミがマラケシュで出逢う物語ですが、舞台であるマラケシュの人が何らかの役割を果たすということはありません。マラケシュはただヒッピーたちが訪れる街として描写されます。そして、マラケシュという街のごく一部のエリアである旧市街の光景しか映されません。

マラケシュには新市街と旧市街があり、ふたつのエリアは壁で区切られています。これは植民地支配時代にフランスの都市計画家であるアンリ・プロストが設計したものであり、旧市街に原住民を住まわせ、その周囲にヨーロッパ人の生活圏として新市街を構築するという計画でした。これは異なる文化どうしを分離すると同時に、その差異を保存するものでした。こうして保存された旧市街にあるジャマ・エル・フナ広場やスーク(市場)は、今日においても多くの旅人たちを惹きつけています。

f:id:yoshidastone:20150608094512p:plain

これは61話のワンシーンですが、これはジャマ・エル・フナ広場にあるCafe de Franceというカフェからとらえたマラケシュ旧市街の光景と一致します。

旧市街の外には新市街が広がっており、空港や大きなターミナル駅、大型ショッピングモールや現代的なアパートメントなどが建ち並んでいます。そらがミミと出会った2003~4年にはすでにマクドナルドもあったようですが、そういった旧市街の外側は、アイカツにおいて全く描かれませんでした。

つまり、そらとミミの二人の出会いの場所をどこか変わった、エキゾチックな場所として演出するために、マラケシュという街の在りようが歪められて描かれているわけです。そうして描かれたものの極北がそらたちの大きな部屋と対比されるミミの住む安ホテルであり、それはヒッピーの街というイメージを存分に強調するものでした。

その「ヒッピーの聖地」としてのマラケシュというイメージは、あくまで欧米人が作り上げたものでしかありません。フランスが植民地支配の過程で作り上げた「旧市街」という枠に、アメリカを中心とするビート・ジェネレーション~ヒッピー・ムーブメントのカラーを塗り込み、そしてその周辺である新市街の現代的発展を切り落としたものとしてアイカツ!マラケシュという街を描いているわけで、そのような描写はモロッコに対して欧米のもつ支配者的な感覚を追認するものといえます。

そのアメリカによる新たなる帝国主義的な視線を61話がはらんでいることを深く意識するために、ここでのミミとそらの会話は旧宗主国の言語たるフランス語であってほしい、と私は考えているわけですね。だからこの解釈は、アニメ本編の描写に対してのある種の私なりの抵抗、レジスタンスであるわけです。なのであくまで、個人的な解釈なのですが。

 

 

エドワード・サイードは「文化と帝国主義」で、フランス植民地下のアルジェリアで生まれ育ったアルベール・カミュとその作品に対して次のような記述をしています。

(...)彼の小説は、それが上梓されてからほぼ半世紀を経ようかという現在もなお、人間の条件についての寓話へと安易に置き換えられている。たしかにムルソーが殺すのはアラブ人となっている。けれどもこのアラブ人には名前がない。父親や母親のみならず経歴すらないようにみえる。たしかに、オランでペストに倒れる人びとはアラブ人ということになっている〔オランはアルジェリアの港町で『ペスト』の舞台〕。しかし彼らにも名前がないし、物語の筋立てのなかで全面に押しだされるのは、フランス人のリウーでありタルーである。また、なんであれテクストに存在しているものの豊かさをひきだすべくテクストを読むべきであって、テクストから排除されたもの――そんなものがあるとしての話だが――を求めてテクストを読むべきではないと、わたしたちはよく語ったりする。けれども、わたしは主張したい。カミュの小説の細部から、かつてはカミュの小説とは無縁だと思われたものを見いだすことができる、と――無縁だと思われたものとは、一八三〇年に開始され、その後、カミュの生きていた時代ならびにカミュのテクストの構成そのものにまで流れこんだ、きわだってフランス的な帝国主義支配の現実なのである。

E・W・サイード 大橋洋一訳「文化と帝国主義 1」p320

アイカツ!に流れこむ『きわだってアメリカ的な帝国主義支配の現実』を私は61話のマラケシュの描写にみたのであり、それは加藤陽一のテクストによるものでありました。氏が中学3年の1年間を鬱憤を募らせながら暮らしたというアメリカという場からどのような影響を受けたのかはわかりませんが、アイカツ!にはどこかアメリカを崇拝するような観点があるように、私には思えてなりません。

 

今日はこのあたりで。明日が最終日です。ここまでに書いたことを前提に読めるようないちそら小説を書けるとよいなと思いますが、正直クリスマスには間に合わないように思います。(もし期待していらっしゃる方がいれば)気長にお待ち下さい……。

 

参考にしました:

モロッコの子供の教育 | marrakech photo diary.

建築家・都市計画家アンリ・プロストによるモロッコ歴史的都市のアーバン・デザイン http://ir.library.osaka-u.ac.jp/dspace/bitstream/11094/56324/1/jjsd62_108.pdf

日の沈む国から「モロッコで新年を迎えたいという無謀な人たちに贈る〜後編」

マラケシュのカフェ事情 (1) 〜 Cafe de France カフェ・ド・フランス : Vivement les vacances! お休みが待ちどおしい

「ズームイン!!朝!」から学んだモノづくり「妖怪ウォッチ」「アイカツ!」脚本家・加藤陽一に聞く1 - エキレビ!(1/6)

大橋洋一 トラヴェラーズ・アイズ、ツーリスト・ゲイズ――小説「シェルタリング・スカイ」と新植民地主義 (1991) 現代詩手帖 34-4 158-161思潮社

E・W・サイード 大橋洋一訳 文化と帝国主義 1 (1998) 320 みすず書房

*1:例によって投稿日時を操作しています。12/25の午前2時頃投稿です

大スター宮いちごまつり=実質アイカツ!61話説などにみられるいちそら

この記事はいちそらアドベントカレンダー5日目の記事です。遅刻遅刻…*1

 

www.adventar.org

 

今日は話数単位にこだわらず、アイカツ!のさまざまな場所からいちそら!と思うシーンを抽出して並べてみようと思います。

75話、「アゲイン♪オフタイム」にて、風沢そらが路上で曲芸をしている一ノ瀬かえでの手をとって服飾店へと連れ込み、かえでに服をコーディネートする、というエピソードが描かれます。ここでそらがかえでに着せた服がこちらです。

f:id:yoshidastone:20161222224927j:plain

ところでこの服のシルエットどこかで見たことがありませんか?腰で留められたリボン、まるく膨らんですぼまるスカート……

f:id:yoshidastone:20161222224942j:plain

そう、Angely Sugarのなないろマカロンワンピ!……と似ているといえなくもなくもないのではないでしょうか。なくもなくってよ。

エンジェリーシュガーを着たいちごちゃんをずっと見ていた風沢そらですから、このようなキュートなコーディネートにはある種の納得感がありますが、しかしなぜそらはかえでを見てインスピレーションを湧かせたのでしょうか?

それはかえでがやっていた曲芸に理由があると考えられます。かえでがやっていた曲芸とはサーカスと縁深いものですが、サーカスといえばいちごが渡米中にやった火の輪くぐりが思い出されますよね。

f:id:yoshidastone:20161223000249j:plain

53話。いちご渡米中のサーカスでの火の輪くぐり

 

かえでもまた、火の輪をくぐるアイドルです。

f:id:yoshidastone:20161223000500j:plain

79話。火のついたトーチの輪をくぐり抜けるかえでとユリカ。このトーチを投げる男性は75話でかえでと共に曲芸をやっていた人

そらはかえでの曲芸から、いちごと相通じる魅力をかえでの中に見いだしたのではないでしょうか。二人を重ねて見たそらが、かえでにいちごみたいなキュートな服を着せた、という婉曲的ないちそらがここに描かれているのかもしれません。

 

-

つづいて、70話「おしゃれ探検隊 クールエンジェルス!」より。

f:id:yoshidastone:20161223001820j:plain

f:id:yoshidastone:20161223001844j:plain

f:id:yoshidastone:20161223001915j:plain

f:id:yoshidastone:20161223001958j:plain

f:id:yoshidastone:20161223001943j:plain

画の説得力が強いのでとくに何も言い添えることはないんですが、そら→いちで割を食う霧矢あおい概念はぷっちぐみベストのコミカライズにもありましたね。過去に書きました。

ぷっちぐみベストのまんが&まんが家カツドウ!はいちそら好きには2億点くらいある最強コミカライズなのでとてもおすすめです。

 

 -

劇場版・大スター宮いちごまつりにて、最後に円陣を組んで、いちご、おめでとう!と成功を祝うシーンがありますが、そのシーンにおいて、劇中で重要な小道具であったクリスタルマイクを、それをいちごから受け取ったあかりとともに、風沢そらが掲げていることに注目したいと思います。これは端的にいちそらですが、そこにもうちょっと深い含意を見出してみようと思います。

このクリスタルマイクとは、繋がっていくアイドルの夢の象徴、「SHINING LINE*」の象徴です。それを大空あかりと風沢そらという二人の「そら」が掲げることに、一体どのような意味を見出すことが可能でしょうか。

f:id:yoshidastone:20151116174643j:plain

まず指摘しておきたいのが、大スター宮いちごまつりで描かれるいちごと美月の物語が、61話「キラ・パタ・マジック☆」におけるそらとミミの物語と強い相似をみせている点です。

61話において、そらはミミを見て、ミミに憧れてアクセサリーを作りはじめ、そしてそらがアクセサリーによってミミを勇気づけた結果、マラケシュで立ち止まっていたミミはふたたび旅を始めました。「どうして今はここにいるの?」と問われたミミが「すこし、こわくなったんだ。新しい扉を開くのが」と答えていたことを思い出しておきましょう。

いちごは美月に憧れてアイドルになり、そして大スター宮いちごまつりにおいては「輝きのエチュード」のステージによって美月を勇気づけ、アイドルを辞めようとしていた美月はふたたびアイドルとして活動し始めます。これは61話のそらとミミの物語と同一の構造であり、にくわえて、アイドルを辞めることを決め、いちごのステージを観ようとしなかった自分を、いちごの輝きのエチュードを観たあとの美月はこういって振り返ります。「ここに来るつもりはなかった。新しい時代を目のあたりにするのは、すこし、こわくて」これがミミの台詞とぴったり重なるわけですね。

つまり61話/劇場版においてそらといちごは、悩み、恐れる人に対して、新しい扉を開く/素敵な明日を迎える ための助けを為す役割を持つ存在として重なり合う存在であり、このクリスタルマイクはいちごからあかりへと授けられたものであるとともに、また同時にそらからあかりへと授けられたものである、という解釈が成り立ちます。これがひとつめの解釈です。

 

もうひとつの解釈として、クリスタルマイクをそらが持つことの意味を重視する解釈も成り立ちます。クリスタルマイクとはマスカレードに憧れた美月、美月に憧れたいちご、いちごに憧れたあかり、と連なってゆくアイドルの系譜の象徴です。とくにここではいちごに憧れたあかりという存在を際立たせる効果を持つ小道具ですから、それをそらも掲げているというのは、そらもまたいちごに憧れてアイドルになった存在であるという可能性を示すものとして解釈できます。

そらがデザイナーとなった理由はミミとの出会いによって説明されているわけですが、一方アイドルになった理由については、学園長からやってみないかと言われたという説明しかありません。デザイナーとしてブランドを立ち上げないかという学園長の誘いにすらその不自由な境遇を想像して顔をしかめてみせたそらが、デザイナーとアイドルとの二足のわらじを履くことの不自由さを考えなかったとは思えません。そらがアイドルになると決めたその胸の内には、アイドルになることへの強い動機があったはずです。その動機が、大空あかりと同様、星宮いちごと結びついているという可能性を、あかりとそらとが掲げるクリスタルマイクに見ることができるのではないでしょうか。

いちごについてそらは62話で「ずっとかわいいなって見てた」と語っていましたが、その関心はいつ頃から抱いていたものなのでしょうか。これについては過去に62話の考察で結論を出しており、あのクリスマスパーティーのデザインを鑑みるに、少なくともいちごの渡米より前であると考えられます。より具体的にいつからそらがいちごのファンだったのかについて思いを巡らせてみますと、本編中に全く描写はありませんが、私は、そらはあかりと同様に、12話で描かれたクリスマスパーティーを観ていちごのファンとなったのではないか、という考えに行き着きました。なぜならあのいちごによる巨木の伐採は、中山ユナという、ある一人のアメリカ帰りの帰国子女のために為されたことであったからです。風沢そらもまた帰国子女であるわけで、もしそらがあの映像を観ていたならば、ユナのために頑張るいちごの姿に強く心動かされたのではないか、と想像できます。紅林珠璃が親と離れて過ごすクリスマスにあの伐採を観てスターライトのクリスマスパーティーに憧れを抱いたのと、ちょうど同じように。

もしそうだとすれば、いちごまつりの終わりにいちごから渡されたマイクをそらとあかりが共に掲げることにより深い意味を見いだすことができますよね。アイドルとしての起源を全く同じくする二人が、一つのマイクを掲げる、というシーンとして捉えることができるわけです。

 

クリスタルマイクについての二つの解釈をお読み頂きましたがいかがでしょうか。

まあ美月・いちご・あかりの三人の手を繋がせたかったから余ったあかりのマイクを持つ手がそらと繋がれただけでは、とお考えの方もいらっしゃると思います。私も実のところ胸の内の5割くらいはそう思っていますし、とてもとても正当な見方だと思います。そうお考えの方は、このようなわずかな断片からもいちそらを紡ぎ出すことができるのだ、という一種のパフォーマンスとしてお読みいただければと思います。

この記事のいちそら解釈が合わなかった方も、なぜ学園長のアイドルへの誘いに対し、デザイナーになりたかったはずの風沢そらは首を縦に振ったのか、ということについて考えてみるのは面白い試みになると思います。ぜひ考えてみてください。

予定とは違う感じの内容になりましたが、今日はここまでにします。お読みいただきありがとうございました。

17/2/24 一部リライトしました。

*1:カレンダーに沿うよう投稿日時を改竄していますが実投稿日時は12/23 3時半ごろです

アイカツ!67話にみる風沢そらの失恋の痛手、と藤堂ユリカのそれと79話

この記事はいちそらアドベントカレンダー4日目の記事です。

www.adventar.org

アニメ本編中において、そらはいちごに対して失恋した――ドレスがいちごに選ばれなかった――のだという主張を、アドベントカレンダーが始まって以来繰り返してきました。風沢そらの失恋が64話にあり、そしてそらがそこから立ち直るプロセスとして67話があった、という話は以前の記事でも書きましたが、以前の記事では冗長に書いてしまったきらいがあるので、改めて手短に67話について語っておきましょう。

67話のタイトルは「フォーチュンコンパス☆」ですが、このコンパスとは恵方巻きのことを指していると考えられます。恵方を向いて食べる風習があるため、恵方巻きは恵方という特定の方角を向くことになります。この性質が南北を決まって指すコンパスの針として擬えられているわけですね。

67話では蘭もそらも迷子になっています。蘭の迷子についてはそうなるに至った理由が明確です。恵方巻きの具を見栄えのよいものにすると決めたはいいものの、その内心ではまだ迷っていたために、ロケで来ていた山の中で迷子になります。つまり蘭については、心にある迷いと山での迷いが結び付けて描かれているわけですが、そらの迷子に対しても同様に、心のなかに何かしらの迷いがあったのだと考えることができます。そのそらの迷いとは、やはり恵方巻きについての迷いだったのだと考えられます。そらは山へ向かうよりも前に恵方巻きを作り、それを食べたきいから太鼓判を押してもらっています。にも関わらずそらは恵方巻きについてのひらめきを求めて山へと向かってそこで迷子になっているわけですから、そらの恵方巻きへの思いも何かしら複雑なところがありそうです。そらの迷いとは、きいに太鼓判をもらった恵方巻きをうち捨てて山へ向かったことと密接に関係があるはずです。なぜそらは既存の恵方巻きを捨てたのでしょうか?

それを考えるために、そらの恵方巻きにこめられた思いについて類推してみましょう。その時そらが作った恵方巻きとは、恵方巻きとしては異様な、クリームと苺などの果物が巻かれたものでした。

f:id:yoshidastone:20160216155845j:plain

この恵方巻きは、67話に登場するある食べ物と対になるものと捉えられます。それは、蘭の作った海の幸入りのクッキーです。

f:id:yoshidastone:20160304113425j:plain

恵方巻きにフルーツやクリームを巻くそらと、クッキーに海藻や小魚を混ぜる蘭。どちらも大変個性的な料理となっていますが、そらの恵方巻きがきいを笑顔にしたのに対して、蘭のクッキーは食べたいちごの顔を曇らせます。

f:id:yoshidastone:20161221192952j:plain

f:id:yoshidastone:20160224052645j:plain

67話において食べ物へと下される評価は、かつて蘭の祖母の語っていた「一番大切なのはどんな思いを込めるか。どんな気持ちで作るか。それが一番の調味料」の言葉にしたがいます。蘭のクッキーには思いがこめられていなかったため、いちごやファンの皆を喜ばせることができなかったのでした。そして、そらの恵方巻きには十分に思いがこめられていたということになります。

その思いとは、62話でそらがデザインした巨大ケーキと同じものなのではないかと私は考えます。甘いものが大好きないちごのために甘いケーキのような恵方巻きを作って、いちごを笑顔にしたい。その思いがそらの恵方巻きにこめられていたのではないでしょうか。この苺の恵方巻きを作ったのはいちごへの思いゆえであり、それゆえに、64話でいちごに選ばれなかった、いちごへの失恋を味わったそらは、この恵方巻きを没にして新たな恵方巻きのイメージを求める必要があったのではないでしょうか。

そして、そらと蘭の二人の迷子は山で出会います。そらは山の幸だけで作った恵方巻きをお腹を空かせた蘭のために作って蘭を満足させながら、「恵方巻きは自由な巻き物。正解なんてない。だからこそ自分が本当に信じるコーデを貫くしかない」と語ります。この恵方巻き=コーデという発想は、蘭の恵方巻きの特訓の際にいちごが語ったものと全く同じものです。

f:id:yoshidastone:20160216183952j:plain

恵方巻きの中身選びって、カードをコーデするのに似てるね!」

ここに、そらが本当にいちごのことを深く理解し、そしていちごに強く影響されていることを読み取ることができます。そらはいちごを「ずっと可愛いなって見てた」わけですが、ただその可愛さを愛でていただけではなく、そのいちごの持つ自由で豊かな発想に共感し、同調していたことが、このシンクロニシティから伝わってきます。そらはいちごから強い影響を受けており、そしてその、まさにいちごから影響されて得たであろう「恵方巻き=コーデ選び」という視座に立って、そらは蘭を元気づけたのでした。

そらは自らの恵方巻き=コーディネートを蘭へと食べさせました。そして85話において、蘭はそらのブランドであるボヘミアンスカイのドレスを着ることになります。あの苺の恵方巻きは、いちごが食べることのなかった恵方巻きとして、64話においてそらがデザインしたが着られることのなかったプレミアムドレスを想起させるものといえるでしょう。

こうした経緯を経て、そらはいちごのためのデザイナーというところから、蘭を含むより多くの人々のためにデザインしていくようになったのではないか、と私は考えています。

 

こういうわけで、風沢そらというキャラクターの物語の中核には失恋があるわけですが、同様に失恋をきっかけに成長したキャラクターとして、藤堂ユリカがいます。

79話「Yes!ベストパートナー」において、ユリカは蘭への思慕を、蘭をパートナーとして選ぶことによって明らかにしました。しかし、蘭はそらを選んでいて、そらもまた蘭を選んでいました。この失恋をきっかけに、ユリカはかえでと絆を深め、トライスターとしての過去を精算することができました。ユリカは失恋をきっかけに成長を遂げたキャラクターであり、そういう点で風沢そらと同じであるといえます。

79話といえば蘭の「わたしかそらの名前書いたのか?」が名言としてよく知られていますが、その言葉を曖昧に肯定したユリカに対して、そらは「なら、三人で話し合って……」と語りかけます。私はこのそらのセリフがとても好きなんですよね。かつていちごに選ばれなかったそらが、ユリカの悲しみを察して歩み寄るというシーンとなっていて。

あの時ユリカがそらの提案を受けていたらどうなっていたでしょう。または、もしあの時そらがもっと強くいちごへアピールして、いちごが福女レースの賞品としてボヘミアンスカイのドレスを所望していたら……。そういったもしもへの想像を、二次創作にぶつけていきたいと思います。

クリスマスに合わせて発表できるよう、いまいちそら小説を書いているのですが難航しています。なんとか書き上げられますように……。

アイカツ!123話「春のブーケ」にみるアーサー王物語の影、と風沢そら

いちそらアドベントカレンダー3日目の記事です。

www.adventar.org

 

本日、フォトカツの次のイベントである「開幕!フォトカツ紅白」の詳細がお披露目になりましたね。

 以前よりPR大空あかりがメドレーイベントの報酬となることが明かされており、もし上位報酬だったら地獄だぞ…と思われていたフォトカツ紅白でしたが、PRあかりは上位報酬だけではなく完走報酬としても配布されることが判明し、ほっと胸をなでおろした方も多いのではないでしょうか。

このフォトカツ紅白というのは63話「紅白アイカツ合戦!」を踏まえたものでしょうし、紅白アイカツ合戦といえばドリアカ勢が大活躍するエピソードなので、風沢そらの活躍なるか、期待したいところですね。

-

と、ここまで書いたところで信じがたい訃報がTLに流れてきました。井内秀治さんが亡くなられたとのことです。

井内さんはキャリアも長く、携わった作品も数多いですが、私にとってはプリティーリズムシリーズの印象がとても強いです。レインボーライブのシリーズ構成はじめ、オーロラドリーム、ディアマイフューチャーの絵コンテ・脚本を担当されていて、シリーズの中核を担う存在でした。井内さんの力が注ぎこまれたプリティーリズムが本当に大好きで、私にとってとても大切な作品です。心からお悔やみ申し上げます。

-

今日の記事は予定を変更して、123話「春のブーケ」について語りたいと思います。

アイカツ井内秀治さんが絵コンテを担当している回はふたつあって、ひとつは137話「ワクワク☆ユニットカップ」、そしてもうひとつがこの123話です。

 

123話で私が着目したのは、瀬名がロマンスストーリーのドレスを作る上で、どの物語をテーマにするかを選ぶ際に、瀬名がアーサー王物語の本を読んでいる点です。

f:id:yoshidastone:20161219235349j:plain

f:id:yoshidastone:20161220000604j:plain

後のカットには、瀬名の机の上に散乱する絵本たちが描かれますが、それらと比べてややアーサー王物語が特権的に描かれているように思われます。

f:id:yoshidastone:20161220002337j:plain

 

なぜこのエピソードにおいて、他の絵本よりも一等大きくアーサー王物語が取り上げられているのでしょうか?私はそれは、123話が「不義の恋」の物語であるからだと考えています。

 

アーサー王物語において重要な役割を果たすキャラクターのひとりとして、ランスロットという騎士がいます。ランスロット湖の騎士と呼ばれる、アーサー王に忠誠を誓う騎士であり、円卓の騎士のなかでも特に武勇を誇る人物でした。しかし、アーサー王の妻であるグィネヴィア妃と道ならぬ恋に落ちたことにより、円卓の騎士を二分する大きな争いを引き起こしてしまいます。この戦いの結果、かつての主君であったアーサー王は死に、愛するグィネヴィアは出家します。ランスロットもまた出家して、二人は離れ離れに暮らす……というのがランスロットの物語の末路です。

また、アーサー王の円卓の騎士にはランスロットと並び立つ高名な騎士としてトリスタン(トリストラム)という騎士がいますが、この騎士の物語として「トリスタンとイゾルデ(イズー)」という物語がよく知られています。トリスタンは叔父であるコーンウォール王・マルケに仕えていましたが、マルケの結婚相手として金髪の乙女であるアイルランドの王女・イゾルデを連れてくるよう命を受けてアイルランドへ向かいます。王女を得るために竜を退治したトリスタンはイゾルデを連れて船でコーンウォールへと向かいますが、そこで二人は媚薬を飲んでしまい、愛で結ばれてしまいます。マルケ王とイゾルデが結婚したあとも二人は密通を重ねますが、その道ならぬ恋は王に露見してしまいます。イゾルデから身を引いて旅立ったトリスタンは、ブルターニュでもう一人のイゾルデ<白い手のイゾルデ>と出会って結婚しますが、トリスタンの心は金髪のイゾルデに惹かれたままです。ある戦いで傷ついたトリスタンは、金髪のイゾルデに会いたいとコーンウォールへと連絡します。金髪のイゾルデはトリスタンの元へと向かいますが、嫉妬にかられた白い手のイゾルデは、トリスタンに対して金髪のイゾルデは来なかったと嘘を吐きます。絶望したトリスタンは絶命し、それを知った金髪のイゾルデも後を追って死ぬ――というのが、「トリスタンとイゾルデ」のあらすじです。

 

アーサー王物語にみられる、主君の妻と不義の恋に落ちて悲しい結末を迎えるこれらの物語たちのイメージこそが、123話のあり得たかもしれないストーリーを暗示するものなのではないでしょうか。つまり、瀬名翼が湖の騎士となり、あるいは星宮いちご金髪のイゾルとなり得た可能性というものを、瀬名の読むアーサー王物語の本は語っている、ということです。瀬名は恩師・天羽あすかのミューズである星宮いちごのためにプレミアムレアのドレスをデザインしようとします。一人のアイドルと、二人のデザイナー。星宮いちごと、天羽あすかと、そして――。

そのように123話を捉えてみたとき、そこに見出される三人の関係性とは、じつは64話の三人の関係性と近しいものといえます。64話でそらは熱心にプレミアムドレスをデザインしますが、しかしいちごはそらのドレスを選ばず、あすかのドレスを選びました。

f:id:yoshidastone:20160304114826j:plain

64話。福女レースで優勝しお仕立券を得たいちごにみな拍手するなか、そらひとりだけ拍手しないで立っている。

f:id:yoshidastone:20161220021349j:plain

139話、「ジョニーと花嫁」で挿入される天羽あすかに教えをこう風沢そらの回想。

瀬名もそらも天羽あすかの教えを受け、またどちらもいちごを求めたことのあるデザイナーであるという共通項があります。さらに加えるなら、二人にはどちらも茂みから飛び出してくる、という共通項もありますね。瀬名は春のブーケ・123話の3話後の126話に、そらはフォーチュンコンパス☆・64話の3話後の67話に、それぞれ茂みから飛び出してきます。その時瀬名は迷っていませんが、そらは迷っています。そのそらの「迷い」については以前書きましたので、合わせて読んでいただければと思います。

瀬名とあかりの関係はいちそらの失敗(そらの失恋)の上にはじめて成立するポストいちそら的関係となっている、と結論づけたところで今日はおしまいにします。お読みいただきありがとうございました。グンナイ……

 

参考にしました:

ランスロット - Wikipedia

トリスタン物語の成立と発展/あらすじ: トリスタン研究ノート

トリスタン - Wikipedia