末吉日記

マンガとアニメのレビューとプリズムの煌めき

『Angelic Angel』からみる劇場版ラブライブ!


【試聴動画】『ラブライブ!The School Idol Movie』劇中歌「Angelic Angel」

 

劇場版ラブライブを語るとっかかりとして、公式に試聴動画が公開されている「Angelic  Angel」のステージについて考察してみたいと思います。確かめてないのですが、この試聴動画が劇場版のステージの映像と同一であるという前提のもとで、このテキストは書かれています。もし異なっていたらごめんなさい。

 

このステージの舞台はタイムズスクエアとセントラル・パークの2箇所であると思われます。タイムズスクエアは世界でも屈指の看板の広告料が高いエリアとして知られています。μ’sを、そしてスクールアイドルを宣伝するにはうってつけの場所でしょう。セントラル・パークは作中で訪れていると思しき公園で、メンバーの誰かがここでライブするのも良いという感じの発言をしてた気がします(うろおぼえ)。

 

Angelic Angel」におけるタイムズスクエアの背景には様々な広告がありますが、その中でも目立つのが実在するミュージカルのパロディの看板群です。『THE TIGER QUEEN』は『THE LION KING』、『JEWELRY GIRLS』は『JERSEY BOYS』、『PiCKED』は『WiCKED』、仮面と『PHANTASY』は『The PHANTOM Of The OPERA』のパロディであると考えられます。他の看板についてもそれぞれ元ネタがあると思いますがとりあえずわかる分だけ列挙してみました。

ラブライブでは、TVシリーズにおいても「ミュージカル的」表現が度々用いられました。とくに1期1話の「ススメ→トゥモロウ」、2期1話の「これまでのラブライブ! 〜ミュージカルver.〜」、そして2期13話の「Happy Maker!」の3曲はミュージカル的な表現と感じるところです。

何を以って作中のシーンをミュージカル的と見做すかについてですが、ここでは

「歌に合わせた踊りや動きなどを含みつつ場面が展開していくが、ストーリーの展開上歌の流れる蓋然性が低い」

ものをミュージカル的と呼びたいと思います。例えば、1期1話の「ススメ→トゥモロウ」はストーリー上歌う蓋然性が低いのでミュージカル的、2期13話の「愛してるばんざーい」や、2期1話の「ススメ→トゥモロウ」などは、ストーリー上歌う必然性が高いからミュージカル的ではない、2期13話の「Oh, Love&Peace!」はやや唐突な楽曲の挿入ではあるが音楽に合わせた踊りや動きがないのでミュージカル的ではない、ということになります。

さて、この分類に則れば、劇場版で流れる各学年の楽曲「Hello,星を数えて」、「?←HEARTBEAT」、「Future style」を用いた劇場版のシーンはどれもミュージカル的であるといえます。劇場版は、ミュージカルを演出のひとつの手法として用いながら、背景(とくにNYの背景)にミュージカルのポスターを繰り返し配置しており、ミュージカルというものに対し強い言及を行っていることは明らかです。これは、TVシリーズのラブライブ!と連続性をもってなされた表現であると考えられますが、それではラブライブ!においてミュージカル的であることとはどのような意味を与えられた表現なのでしょうか?

 

それは、製作者側からミュージカルであることが唯一明確に示されている2期1話の「これまでのラブライブ! 〜ミュージカルver.〜」のシーンから読みだすことが可能です。このミュージカルのシーンについて、実際の穂乃果は壇上で固まって何も言えなかったことを海未は指摘します。ミュージカルとして描かれたのは現実とは異なる虚構の生徒会長就任挨拶であったという指摘であり、ここから、ラブライブ!作中においてミュージカル的展開とは、作中の現実とも乖離した、虚構性の高い時空間を示すものであると捉えられます。

 

劇場版における「ミュージカル」ですが、シンガーが歌っていた場所の背景にもミュージカルのポスターが描かれています。おそらく二人が出会ったのもこのタイムズスクエア付近だったのでしょう。多くの劇場が建ち並び、街中にミュージカルの広告が溢れる、現実と虚構が混じりあう街。それは、アニメやゲームの看板がそこらに貼りだされている秋葉原と似ているような――そんな街。だからこそ、穂乃果はシンガーと出会うことができたのかもしれません。シンガーは穂乃果を除くμ’sの他のメンバーには捉えられず、またシンガーから受け取ったままのマイクについても、誰にも見えていないかのように、話題の端にも取り上げられません。シンガーとマイクは作中においても虚構的存在であり、穂乃果はタイムズスクエアでそれと、刹那だけ触れ合ったのでしょう。

 

さて、以上のことを踏まえてAngelic Angelのステージについて考察していきます。

このステージの背景において、奇妙な対応をみせている1対の看板があります。

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サビに入るところで映される舞台右上の「PHANTASY」の文字と仮面が描かれた看板と、

 

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舞台左側にある「PHANTOM SMARTPHONE」の看板です。

PHANTASYは元ネタがオペラ座の怪人、「The Phantom of The Opera」でしょうし、それとその元ネタの「Phantom」を対になる形でステージを挟むように配置してあることには何かしらの意味があると考えられます。phantasy=幻想。phantom=幻影。これらの看板は、このタイムズスクエアにおけるステージの虚構性を示しているのではないでしょうか。実際にステージを撮影した場所はセントラル・パークであったけれども、穂乃果がタイムズスクエアで歌うことをシンガーとの出会いを通じて夢見てしまったから、幻想であるこのステージがスクリーンに映しだされてしまった――穂乃果の夢見た、穂乃果の華々しい生徒会長就任挨拶のミュージカルをわれわれが観てしまったように―― というのが私のAngelic Angelへの解釈です。

 

「ココはどこ? 待って言わないで わかってる 夢に見た熱い蜃気楼なのさ」

 

穂乃果たちが帰国すると、「Angelic Angel」によってμ’sは大ブレイクしています。それにつれて変わっていった秋葉原の街の光景は、どこか現実の秋葉原と似てはいないでしょうか。街にはμ’sの熱狂的なファンがいて、μ’sが描かれた看板やポスターが並んでいる状況は、2015年の秋葉原と近いものとなっています。「Angelic Angel」という現実と虚構が混ざりこんだ映像がきっかけで、現実世界におけるμ’sへの認識と、ラブライブ世界におけるμ’sへの認識が漸近していくのです。そして指摘される、「夢」である可能性――。この現実と虚構を混濁させる「夢」こそが、劇場版ラブライブを読み込む鍵なのではないか、と指摘したところで一旦論を閉じることとします。

こういったメタフィクション的な仕掛けを用いて、結局この映画はいったい何をやってのけたのか?ということについては、また項を改めて書きたいと思います。

アイカツ!85話「月の砂漠の幻想曲」 そらの理念、蘭の実践

 アイカツ!85話「月の砂漠の幻想曲」は私の大のお気に入りであるキャラクター、風沢そらがメインで活躍する回なのだが、このエピソードを初めて見終えた時には、どうにも腑に落ちない、奇妙な回のように感じられたのだった。

 そのもやもやを解消すべく、85話をつぶさに観返して自分なりにこのエピソードを分析した。その結果、このエピソードをうまく消化するための一筋の道を見つけることができた。それは、風沢そらがもつフェミニズム観、という切断面である。

 85話は、そらが自らの信念に気づき、それを貫こうとする物語として読めるが、その信念とは自らがなりたいと願う「お姫様」の在り方にまつわるものである。そらは姫の衣装の制作に取り組むが、そのデザインには女性を解放しようとするフェミニズム的意図を読むことができる。以下この記事では、風沢そらとフェミニズムについて詳しく語ってゆく。

(17/4/29 編集)

(18/12/28 編集)

(20/06/3 編集)

 

 風沢そらは姫のドレスを二度デザインする。初回のデザインに影響を与えたものとして、イスラム圏の女性の服装について書かれた書籍が描かれている。

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 「イスラム圏の女性は、頭を含めた体全体を隠す服装をすることが多い。衣装の種類としては、アバヤ、ヒジャブ、ニカーブなど、様々。」と開かれた本には記載されている。この記述がそらのデザインとどう関係するのか検討したいところだが、ひとまず先に、この本がどのような文脈でエピソードに現れたかを見ておきたい。

 Bパート・アイキャッチ直後。そらの部屋で、そら、きい、セイラが、そらと蘭が主演するドラマで、そら自身がデザインし、そらと蘭が着用することとなっている衣装のデザインについて話している。このシーンでこの本は映しだされる。

(そらが女剣士と姫の衣装デザイン案のイラストをセイラときいに見せる)

 きい 「姫のドレスはひらひら一杯で可愛い」

 セイラ「そらがこれを着たら本物のお姫様みたいに見えるんだろうな」

(そら、曇った表情で机へ向かって歩き出す)

 そら 「お姫様か…」

(そら、机の前で立ち止まり、首だけ振り返る)

 そら 「二人の中のお姫様ってどういうイメージ?」

 セイラ「それは…美しくて清楚で可憐で」

 きい 「守ってあげたいってイメージ」

 そら 「そっか…」

(そら、曇った表情で机に向き直る)

 そら「色々調べてイメージ通りのドレスが出来たはずなのに」

(そらの机の上が映される。いくつかの資料が並んでいる。イスラム圏の男性の服装、女性の服装についての本がそれぞれ映される(前掲のカットはここ))

 そら 「私のなりたいお姫様って…」

(そらの悩み顔がアップになる。ここで場面転換)

 一連のやりとりから、そらの言う「イメージ通りのドレス」とは、セイラやきいが思うような「守ってあげたい」=被庇護者である姫のイメージにそぐうものであることがわかる。そしてそのイメージが、「イスラム圏の女性のイメージ」と重なりあうものであるように示されている。つまりそらは、姫を被庇護者としてイメージし、そのイメージ通りのドレスをデザインしてみせているのだが、実際のところそのデザインには納得がいっていないのである。

 このデザインは破棄され、新たなるドレスがデザインされる。スターライト学園で目撃した、殺陣に打ち込む蘭の姿に感銘を受けたそらは、「一緒に戦うお姫様」のイメージを基にドレスをデザインし、このドレスを着用してドラマのオーディションに挑む。

 この二着のドレスの比較から、そらの思考が浮かび上がってくるものと考えられる。加えて、ドラマの企画書に記載された剣士と姫のイメージ画も比較の対象としたい。企画書の画とはクライアントの求めるお姫様像を如実に表すものであり、デザインにあたってそらはこの画も参考にしたと考えられるためだ。

企画書のイメージ画、初期デザイン、最終デザインの順に並べ、それぞれ比較してゆく。

・ドラマ企画書のイメージ画

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・初期デザイン

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・最終デザイン

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 まず企画書のイメージ画と初期デザインの違いについて検討する。企画書の姫のドレスはノースリーブ・へそ出しと露出が強めであるが、そらの初期デザインはそうではない。この露出の少なさは、書籍から得た「イスラム圏の女性は頭を含めた体全体を隠す服装をすることが多い。」という情報を念頭に置いたデザインと考えられる。初期デザインではドレスの袖・裾の丈も長く、企画書では半透明だった頭に着けたヴェールも、不透明な布へと変えられている。

 続いて、初期デザインと最終デザインについて検討する。最終デザインでは、ドレスの袖と裾が短くなり、髪を隠す布も取り去られている。そらは殺陣に打ち込む蘭の姿を見たことにより、「守られる姫」から脱却するデザインを狙ったわけだが、このたくらみは、イスラム圏の「女性は体と髪を隠すもの」という規範から敢えて外すことにより表現されたのである。

 つまりそらは、企画書イメージ画を念頭に、イスラム圏での女性のドレスコードを織り込むかたちで初期デザインを描いたが、後にそのコードを意図的に破ったドレスをデザインすることによって「守られる姫」像を棄却し、「女剣士に憧れ、近づこうとする姫」像を表現しようとした、と結論できる。「世間の姫のイメージ」と「イスラム圏の女性」との間に「守られる」存在という共通のイメージを見いだし、守られるばかりであった姫を、髪や体を隠す布を外すことによって解放するように表現したのである。

 

 このそらのデザインを、西洋的リベラル・フェミニズム理念に基づくイスラム女性へのまなざしのあらわれとみることが可能だろう。女性が髪や体を隠すのは女性を守るために必要なことである、という考えはイスラム社会においては一般的なものだ*1

 そのムスリムの考えに基づくヒジャブやブルカ、ニカーブといったイスラム女性の服装は、リベラルさを追求する西洋のリベラル・フェミニズムの視点からは、イスラム社会による女性への抑圧のシンボルとして解釈されるようになった。フランスにおいてブルカ禁止法が2010年に制定されたのは記憶に新しいが、この法制定の根拠はライシテ(フランスにおける世俗主義、公共空間における非宗教性の追求)の概念と、女性解放の文脈の二本柱であったようだ*2

 この公正さを追求するためにブルカを排斥するというやり方には疑問の声もある。女性のブルカを禁止しても、女性にブルカの着用を促すコミュニティの思考体系が変わらない限りは、かえって女性を家に縛り付けることとなってしまう、という批判がある*3

 ブルカというシンボルのみを槍玉に挙げても、イスラム社会の男性本位さ、女性差別に対する本質的な批判とはならない――これがフランスのケースから得られるひとつの論理的帰結であるが、『アイカツ!』68話において風沢そらが直面する問題は、このフランスの事例をなぞるものとしても読むことができる。

 前述のとおり、風沢そらは姫に負わせられた「被庇護者」という固定観念からの解放を意図してデザインを修正した。そしてドラマオーディション中、そらはその思想をより鮮烈に表現すべく、剣を手にとって戦うというアドリブをみせる。だが、そらの取ったこのアクションに対し、ジョニーは「そんなへっぴり腰じゃ野菜も切れナッシングだぜ」と揶揄し、殺陣の師範も「しっかりアクションを仕込む時間は用意してくださいよ」と皮肉めかして言う。

 ここで浮き彫りとなるのは、ジョニーや殺陣の師範が評価において何よりも優先するのは殺陣の出来栄えであり、そらの持つ女性解放の理念などではないということである。そらは「守られる姫」という観念をドラマを通じて取りざたしたいのだが、その論点は、ジャッジを行う側の人間である師範には理解されない。ひょっとしたら理解しているのかもしれないが、それでも彼は殺陣の出来栄えを優先し、そらに対し抑圧的な態度を取る。監督が面白いとコメントしているのは救いであるかもしれないが、のちに監督の理解も浅いことも明らかになる。

 このそらと師範の関係が、フランスにおける事例と重なるものだ。イスラム女性がライシテの理念を受け入れブルカを外そうとも、彼女の属するイスラムのコミュニティがその姿で外へ出ることを許さなければ、結局のところその平等の理念は実践され得ないのと同様に、ドラマのオーディションを行う側の意識が変わらなければ、そらの表現が広く世に出ることはないのである。

 そらはフェミニズム的理念をデザインとして表現し、オーディションで問うことまではできたのだが、それを異なる評価基準が支配的である領域において押し通し、実践するだけの力は持っていなかったのだった。

 そのそらを助けるのが紫吹蘭である。蘭はアクション本位のドラマ価値観の中でオーディションを勝ち抜くために修行を行った。重要なのは、これまで蘭がモデルやアイドルとして表現の根幹としてきた「ウォーキングの立ち姿」や「ダンスで鍛えたステップ」が、修行の過程で師範に厳しく否定されてきている点である。蘭はこれまでモデルとしてのキャリアで美しさの表現に磨きをかけてきたが、その女性的魅力の発露は、ドラマの殺陣において抑圧されてしまう。

 この女性的魅力の抑圧は、そらのデザインにおける、髪・体を隠すコードとパラレルなものである。女性的魅力を抑圧しようとする力が、蘭には殺陣における論理として、そらにはドレスコードとして、目の前に立ち現れてきているというわけだ。

 そらはヒジャブを廃するというアプローチを取ってこの抑圧に抵抗するが、蘭は殺陣の論理を受け入れて殺陣の精進に努める。蘭は師範の言いつけを守る殺陣の技術でオーディションを進めてゆくが、最後の最後で見せる「魅惑の刃・幻想剣」は、これまで蘭が抑圧されてきた自らの女性的魅力を爆発させ、師範らを圧倒する。

 幻想剣とは次のような技だ。

(剣をS字を描くように振りながら)

蘭   「魅惑の刃!」

(発光する剣を大上段に構える)

蘭   「幻想剣!」

(ポーズを決めながら静止。ジョニー驚いて目を見開く。蘭、跳躍。ひねり回転を一回転。ジョニーは見とれている)

ジョニー「ビューリホー」

(蘭、両手で剣を握る。ジョニー両手を広げて)

ジョニー「ワンダホー」

(蘭、剣を振り下ろしながら)

蘭   「これで、終わりだ!」

ジョニー「アンビリーバボー」

(ジョニー、光の粒となって消失)

 蘭が見せる、ポーズを決めながらの静止からはモデルで鍛えた立ち姿が、跳躍して回転する動きからはダンスで鍛えた身体表現力が示されているといえるだろう。DCD版のムービーでは剣をS字に動かし技名を叫ぶ→暗転に剣戟のエフェクト→チームアピールチャンス→ジョニー倒れる というシークエンスになっている。このことからも、幻想剣は殺陣の技術とアピールの表現力の複合によって繰り出される技であり、ダンスなどのステージと共通する表現の要素が盛り込まれた技であることを確かめることができる。

  蘭の女性性の魅力がそれを抑圧してきた論理である殺陣と結びついて花開き、その論理を押し付けてきた存在であったジョニーを、師範を圧倒するという展開。この蘭の行動を、社会を支配している規範に入り、その内側から女性を解放していく、女性解放のひとつのプロセスとして読むことができる。

 そらの理念的-デザインと蘭の実践的-殺陣とダンスの融合、という対比、そしてその両者が手を取り合ってゆくことによって、「守られる姫」という課題は解決される――これが85話で語られたことである。そして、その課題についてはオーディションの後に、どう解決されたかが示される。写し出されるのは大きく引き伸ばされたドラマのポスターだ。

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 姫が女剣士に守られる構図である。

 結局、そらの「守られる姫」像からの脱却という理念は、監督に「面白い」と言わしめることはできたものの、ドラマの全体的なコンセプトまでは変えることはできなかったということである。このポスターが、先にあげた企画書における剣士と姫二人の構図とそっくりそのままであることからも、現実は一朝一夕には変わらないという重い結果が読み取れる。

 だが、それと対称的に、続いて流れるドラマのラストシーンと思しきカットは希望に満ちあふれたものである。

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 手を取り合って、幸せそうにどこまでも飛んで行く二人。しかし、そらと蘭の声には、劇中劇性を強調するように、スピーカーから流れるものであるように聞こえるような音響エフェクトがかけられている。これは虚構性を強く演出するものといえるだろう。理想通りに変わらない重い現実と、美しい虚構の対比である。

 しかしその虚構が虚構であるがゆえに、現実を離れた純粋な祈りとして受け止めることができる。理念と実践をそれぞれ携えた二人の女性が手を取り合って三日月と星空の夜をどこまでもゆく、自由で幸福な女性たちの未来――。そんなビジョンを、アイカツ85話というエピソードは、現実の切れ間からそっと見せてくれたのではないだろうか。

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その他もろもろ

スターライト学園で蘭が特訓する際、かえでが斬りかかって来た時だけ、蘭は笑みを浮かべる。

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 なぜ蘭はかえでに対してのみ笑みを浮かべたのか?これを読み解く鍵はJAKにて師範にダンスのステップを批判される際のシークエンスにある。

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いちご「かっこいい!なんだかダンス踊ってるみたいね」あおい「うん!」

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あおい「ウォーキングで鍛えた立ち姿もキマってる」

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師範「ストーップ!」

 ここでは画面が揺らされ、師範の批判が非常に強いものであることが演出されている。

 この批判の後、蘭がすり足で移動するように矯正されているカットが入る。跳躍→すり足という対照。

 蘭にとっての「跳躍」はダンスと結びついた行動であることがここからわかる。つまり、かえでが斬りかかってきたときに笑みを浮かべたのは、かえでの斬撃に対して「跳躍」して避けた、禁止されたはずのその跳躍の楽しさから、つい笑みを浮かべてしまった、というのが理由ではないだろうか。そしてそれは、蘭が幻想剣を、高々とした跳躍で舞い上がりながら笑顔で放つことへの伏線でもあるだろう。

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幻想剣!

 

 オーディション直前、師範に対する二人のお辞儀の角度の違い。

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 そらは軽く目礼、蘭は最敬礼している。師範というドラマ的(=女性抑圧的)価値基準に対する二人の意識の対比として見ることができる。蘭はその価値基準を深く内面化しているのに対し、そらは比較的軽視している。そらは師範が何を言っているかよりも、それに対して蘭がどう応えたについて注目している。

 師範がオーディションについて説明した後、師範の「しっかり見せてもらうぞ」の台詞に対して、蘭は「はい!」と応える。するとそらは蘭の方を向き笑顔を見せる。

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 そらが、蘭が殺陣という自分のメインフィールドではない新しい場所で輝こうと頑張っていることについて、好ましく思っていることがわかる描写だ。

 そらが蘭に向ける好意は、そらが蘭の殺陣の特訓を見ているときに生まれたものである。この好意がどのようなものかについては解釈の幅があるが、剣士という本来男性的である役割を蘭が努力によってつかもうとしていることに対する好意として捉えられると私は考えている。ジェンダーの壁を越えることに対して、そらは非常に好意的である、ということだ。そして蘭に感化されて、そらもまたジェンダーの壁をドレスのデザインによって越えようとするのだ。

 

 

 風沢そらは幼少期をモロッコで過ごした人物であるが、モロッコの「姫」にLalla Aicha(1930-2011)という人物がいる。スルタン・ムハンマド5世の娘であり、国王ハサン2世の姉であるこの人物は、イギリス、ギリシャ、イタリアのモロッコ大使を歴任した、歴史的な活躍をみせた女性である。イギリスではアラブ出身の女性として初めて大使となった人物として話題となり、TIME誌の表紙を飾ったこともある。

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 Nov11,1957,Vol.LXX,No.20のTIME誌表紙。ムスリム女性の解放という題がつけられており、手前の洋装を着て髪を露わにするプリンセス・アーイシャと、奥の全身を布で覆ったムスリム女性の対比が描かれている。

 彼女はモロッコの近代化のために女性の教育の必要性、婚姻関係における法的地位の改善を説き、女性解放に努めた。アーイシャの姿が、モロッコで過ごした風沢そらが抱く「姫」のイメージになんらかの影響を与えていたのかもしれない。

 

 そらと蘭を西洋的リベラル・フェミニストと実践的なフェミニストと読み替える読解を今回行ったけれども、現実のイスラム社会でも、その両者の連携によるフェミニズム運動が盛んになってきているようだ。実践的というのはあまりぴったりくる言葉ではなく、しっくりくる言葉を見つけられないことにやきもきしているのだが、ここではイスラム主義を前提にして、クルアーンイスラムの古典的テクストを男女同権的に読解するという動きのことを実践的と呼んでいる。この動きは、イスラム教徒によるイスラム教徒のためのフェミニズムともいえるだろうか。エジプトのマラーク・ヒフニ・ナシーフ(1886-1918)に端を発し、現在も活動中である著名人としてはモロッコのナーディア・ヤースーン、アメリカ出身のアミナ・ワドゥードなどがこの活動を行っている。

 西洋的リベラルフェミニズムイスラム主義の連携について触れられている記事を2本紹介する。随分と遠くまで来てしまった感があるが、私はここに、アイカツ85話のテーマと共通する問題意識を感じている。

女性の価値が”男性の半分”しかない国 現地の女性活動家が語る、パキスタンのリアル|ウートピ

Fatima Sadiqi on モロッコの、ベールを被ったフェミニスト達 - Project Syndicate

 現実社会との対応といえば、インドネシアでの放送がどのようなものになるかについても今後注目したいところだ。そのまま放送されるのだろうか?→されたようだ(17年4月29日追記)

 

 当初この回サブタイトルを「月の砂漠の狂想曲(ラプソディー)」と書いていたが、正しくは「月の砂漠の幻想曲(ラプソディー)」であった。(指摘していただいた生姜維新さんには多謝申し上げます。)ドラマのタイトルは狂想曲であったので、てっきりサブタイトルも同じかと思ってしまっていたのだった。訂正ついでにラプソディー(rhapsody)について調べてみると、音楽ジャンルとしてのラプソディーに対応する語は「狂詩曲」である。一応ラプソディーを「狂想曲」と訳す例もあるようだが、狂想曲と対応する語はカプリッチオ(capriccio:伊)のほうが一般的のようだ。幻想曲はファンタジア(fantasia:伊)であり、アニメサブタイトル、ドラマのタイトル、どちらとも違和感のある形になっている。狂想曲にラプソディーという語を当てるのはそういう訳例もあるので理解できるが、幻想曲にラプソディーは、何らかの意図がなければまずやらないルビの振り方ではないだろうか。その意図とは何だろうか?

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 仮説をひとつ挙げておく。rhapsodyという語には、(…についての)高揚した感情の表現,熱狂的発言,情熱的な文章 という意味もある*4。85話に描かれる「高揚した感情の表現」といえば他ならぬ幻想剣のことであるだろうし、それゆえに「幻想」曲にラプソディーというルビが振られたのではないだろうか。

 

 

参考文献・URL

イスラームのフェミニズム│mukofungoj ĉiuloke

ロッコを知るための65章 私市正年、佐藤健太郎(編著)第57章「フェミニズム運動」 明石書店 2007年

*1:http://www.aa.tufs.ac.jp/~masato/harem.htm 飯塚正人 ハーレムの外へ ―北アフリカにおける女性の社会進出とイスラーム― より引用:「ムスリムは男女が同じ空間を共有することに異常なまでに敏感であるが、それはなぜか。ムスリム男性が公けに問われた場合、答えは決まっている。すなわち、イスラームは女性の体を傷つきやすいものと考え、これを男性から守るために隔離を実践してきたというのである。」

*2:ブルカをめぐる熱い論争(2): Mozuの囀「ゲラン議員のブログにあった決議提案文の中のモチーフを説明している箇所の訳」より引用:「イスラムのスカーフは宗教への帰属の明白な徴をなしていましたが、ここで我々はこうした実践の極端な段階を前にしているのです。これは誇示的な宗教的表明のみならず女性の尊厳、女性性の表明に対する攻撃であります。ブルカないしニカブを纏うことで女性は閉鎖、排除、屈辱の状態に置かれます。その存在すら否定されるのです。」

*3:ムスリマ(イスラム教徒女性)の衣装を法律で規制するべきか--イアン・ブルマ 米バード大学教授/ジャーナリスト | トレンド | 東洋経済オンライン | より引用:「なぜブルカを禁止するのが好ましくないか、もう一つ現実的な理由がある。真剣に移民の受け入れを考えているのなら、移民ができるだけ自由に公的な場所に出掛けることを奨励すべきだからだ。ブルカを禁止することは、女性を家庭に強制的に閉じ込めることになり、外部の社会との交渉を今以上に男性に依存させることになる。」

*4:rhapsodyの意味 - 英和辞書 - 英語辞書 - goo辞書

詳説・アイカツ!61話「キラ・パタ・マジック☆」

 先日のバンダイチャンネル3日間無料体験キャンペーンの折、ずっと観なくてはと思っていたアイカツ!をようやっと101話まで観ることができました。その中で、心に残るエピソード数あれど、61話「キラ・パタ・マジック☆」の素晴らしさは別格でして。最初に61話を観終わった瞬間61話をリピート再生しましたし、101話を観終わった後も61話を再生しました。体験期間終了後、禁断症状を抑えられずU-NEXTの余っていたポイントで61話を単話購入したり(最近はdTVがアイカツ2nd観放題になってとても嬉しい)、図書館でモロッコについて調べたりモロッコにゆかりのある作家の小説や伝記を読んだりして、61話と風沢そらへの理解を深めようと努めるようにまでなってしまいました。いじられヴァンパイア目当てに筐体デビューもしました。オリエンタルリブラのカードも揃えました……。

 それで、61話や風沢そらについて語りたいことは頭に浮かび次第ちょいちょいtwitterでつぶやいていたのですが、twitterでは語りづらいまとまった文章を書きたくなってきたので、今回ブログでまとめて語ろうと思い記事を書くことにしました。

 今回は純粋に61話だけを取り上げて語ります。モロッコにまつわる作家と風沢そらとの繋がりについても色々と発見があって大変面白がっているところなのですが、それはまた別の機会に。

 

15/06/21 一部内容を修正・改稿しました。

16/03/24 全体的に表現を改め、一部内容を追加しました。

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アイカツ!61話 「キラ・パタ・マジック」

脚本:加藤陽一 絵コンテ:近藤信宏 演出:福岡大生 作画監督石川恵理、糸島雅彦

挿入歌「Kira・pata・shining」作詞:只野菜摘 作編曲:PandaBoY 歌:すなお from STAR☆ANIS

あらすじ

 風沢そらはドリームアカデミーに在籍しているアイドルであり、デザイナーとしても活躍して世間から注目されている。ある日、ドリームアカデミーのティアラ学園長から、そらによる新ファッションブランド立ち上げという提案をされる。この異例の提案をそらは承諾するものの、その責任の重さとうまく向き合えないでいた。作りたい服を自由に作るのではなく、ブランドとして定期的に作品を作らなくてはならないという重圧に耐えられるか、また、自分のデザインで本当に他人を輝かせることができるのか、と思い悩む。

 その様子を見たきいとセイラは、そらの助けになろうとそらの部屋を訪れる。するとそこにはオウムがいて、セイラときいは驚く。オウムはそらのペットであり、そのオウムのパームについて話し始めたことから、自身がデザイナーを志したきっかけである、モロッコ・マラケシュでの体験について語り始める。

 そらが5歳の頃、マラケシュで出会ったボヘミアンのミミは、ずっと世界を自由に放浪してきた人だったが、今はマラケシュにとどまり、新しい土地へ旅立つことをこわがるようになってしまっていた。そらはミミが作るアクセサリーに影響を受けて、自分でもアクセサリーを作るようになっていった。

 ある日、日々熱中してアクセサリー作りに打ち込むそらに対してミミはすごいねと感嘆の声を漏らすが、そらはそれを否定する。「本当に凄いのはミミさんだよ、わたしが作ってるのはミミさんが頑張ってるのを見ていいなって思ったからだよ。くしゅ、ふわって。あれ見てから私、魔法にかかったみたいなんだもん」と返し、そらは作ったばかりのアクセサリーをミミの髪につける。鏡を見てその出来栄えに感心し嘆息したミミは、「魔法か。アクセサリーも衣装も、おしゃれって魔法なのかもしれない。新しい自分になりたいときに、元気をくれる魔法。うん」とひとりごちる。そらはミミに、「わたしはこういうの作る人になりたいな。わたしもなりたい自分になれる?」とたずねる。ミミは、そらのままで居続ければきっとなれる、今のあなたに元気をもらったからとこたえる。

 後日、そらがミミの部屋を訪ねると、ミミは既に旅立った後であり、残されていたのは置き手紙と髪飾りだけであった。手紙にはそらへの感謝の言葉が書かれており、髪飾りは、今でもそらが大切に身につけているものだった。

 その話を聞いたきいは、そらがあげたアクセサリーが魔法をかけたからミミは旅立つことができたのだ、とミミの旅立ちの理由を説明する。なぜミミが旅立ってしまったのかがわからなかったそらは、晴れやかな顔できいの説明を受け入れる。きいは重ねて、そらがブランドを立ち上げて自分らしく衣装を作ればミミのように元気を受け取る人がかならず現れる、とそらを勇気づける。

 きいたちとの話で踏ん切りがついたそらは、元々ブランドにつけようとしていた名前『ボヘミアン』に、より自分らしくいられるようにと自身の名を加えて『ボヘミアンスカイ』とする。新ブランドのお披露目ステージで、そらは自身がデザインしたプレミアムドレス『オリエンタルリブラ』を着てステージに上がる。

 お披露目ステージは大成功に終わり、そらは建物の外の海辺へ出て独り、空を見上げる。心に思い浮かべるのは砂漠へと消えていくミミの姿である。誰かを元気にできたかな、と想うそら。気づけばあたりに雪が降り始めていた。

 

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ストーリー考察

 エピソード中盤、そらはティアラ学園長のブランド立ち上げの提案を受けたあと、きいとセイラに対し、ブランド立ち上げにまつわる二つの責任について、「どうしていいか悩んでる」と語る。その責任の一つは、自身のブランドを持てば、たとえアイデアがなくとも、新しい衣装を定期的に発表し続けなくてはならないという責任であり、そしてもう一つは、アイドルの魅力を十分に引き立てる衣装を作らなくてはならないという責任であった。ブランドを立ち上げることには賛同したものの、それらの責任を背負ってゆけるかどうかについての悩みがそらの中にはあったのだった。

 これらの悩みのうち、後者の、着た人の魅力を引き立てる責任についての悩みは、きいの説得が大きな支えとなり解消している。ミミが再び旅立つための勇気をそらのアクセサリーから得たことから、そらのデザインには人を元気づける「ファッションの魔法」が備わっているはずだ、というのがきいの説得の論理であり、そらはこの理屈を受け入れた。

 それでは前者の、定期的に衣装を発表し続けなければならないという責任についての悩みはどうだろうか。この悩みが解消されている描写は作中には存在しない。とすれば、そらは定期的に作品を発表する責任についての悩みを抱えたまま、ボヘミアンスカイを立ち上げていることになる。

 そのそらの穏やかならざる内心が垣間見られるのが、ボヘミアンスカイのお披露目ステージの後、会場を出たそらが薄暮の空を見上げてミミを想う、61話のクライマックスともいえるこのシーンだ。

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 そらがイメージするのはミミの旅立ちのシーンだが、砂塵へと消える直前、振り向いたミミの表情には愁いが漂っている。このシーンがはらむ意味あいをより深く検討するために、このミミの旅立ちのシーンを、もうひとつのミミの旅立ちを描いたシーンと比較したい。そのシーンは、きいが、そらがあげたアクセサリーがミミにファッションの魔法をかけたからミミは旅立ったのだとそらを説得するところで映される以下のものだ。

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 ステージ後と、きいの説得中とのふたつのミミの旅立ちのイメージを比較検討してみよう。どちらにも夕空の下に旅立っていくミミの姿が描かれているが、先に挙げた旅立ちの情景は、背景の描き込みや無骨なバックパックの存在から、よりリアルな旅立ちのイメージであることがわかる。次に、ミミが見せるしぐさなどの違いに注目すると、前者のミミが不安げな表情を見せているのに対し、後者のイメージでは、ミミは晴れやかな表情を見せている、前者では後ろ髪を引かれるように振り向くが、後者では振り向かず前へと進んでいく、前者のミミはそらの髪飾りを見せない(つけているのかも不明)が、後者ではそれを大写しにする、という対比が見て取れる。

 これらの対比から、後者のミミの旅立ちのイメージは、「ファッションの魔法」の力に鼓舞されたミミを表現するものであるといえる。それは、このイメージが「そのアクセが、ミミさんにおしゃれの魔法をかけてミミさんは新しい自分になりたいって思ったんだよ」というきいの台詞と共に映しだされたものであることからも明らかだ。

 そして、前者、つまりステージ後にそらがイメージしたミミの旅立ちにおいては、ミミには「ファッションの魔法」の力がほとんど働いていない状態である、ということになる。きいに、そらのデザインには魔法の力が備わっている、人を元気にさせることができると説得されたそらがブランド立ち上げのステージを大成功させたにもかかわらず、そらは「ファッションの魔法」がかかっていないミミの姿を思い浮かべている、ということになる。

 ステージ直前に「魔法をかけてあげる」と言って始めたステージが大成功を収めたにもかかわらず、「ファッションの魔法」のかかっていない愁いの表情のミミを想う。この表現こそ、そらの穏やかならざる内心を描き出すものであり、「定期的に衣装を発表し続けなければならないという責任」についての悩みの深さを示すものであると考えられる。

 定期的に衣装を発表し続けなければならない状況というのは、そら自身が不自由な立場になることを意味する。「私はね、今まで作りたい服を自由に作ってきた。ほとんど趣味みたいにね」と語ったように、そらはこれまで自由な存在であったが、ブランドを立ち上げてトップデザイナーとなれば、様々な制約にしばられて不自由になってしまう。そらにとってブランド立ち上げとは、「ファッションの魔法」を行使するために必要なことであると同時に、自身の自由を奪うことでもあった。この自由を失うことへの「恐れ」が、ステージ後に想像する旅立つミミのイメージを形作ったのだと考えられる。

 ミミはずっと世界を旅していたが「少し、恐くなったんだ。新しい扉を開くのが」とマラケシュに落ち着いていたところにそらと出会った。きいは、そらの「ファッションの魔法」がミミにかかったことにより、ミミは旅立つことができたのだと語る。魔法によって克服される「恐れ」。だが、ステージ後のそらがイメージするミミには、前述のとおり「ファッションの魔法」がかかっていない。それでもミミは砂の中へと旅立ってゆく。胸の内にある「恐れ」と戦いながら。

 ミミは「恐くなった」と語ったが、それはどのような恐怖なのだろうか。自由なボヘミアンらしく、自由な旅を続けてきたミミ。しかし、ミミはマラケシュで立ち止まった。自由とは、孤独と表裏一体だ。ミミの新しい扉を開くことへの「恐れ」とは、この孤独への恐れではないだろうか。

 ミミはそらの「魔法にかかったみたいなんだもん」という言葉と、そらの作ったアクセサリーに心を強く動かされる。そしてミミは「アクセサリーも衣装も、おしゃれって、魔法なのかもしれない。新しい自分になりたい時に、元気をくれる魔法」と語る。

 そらへと「魔法」をかけるのに成功していたこと。そして、そらに教えたアクセサリー作りの技によって創りだされたものが、自分を確かに元気にするものであったこと。これらが一体となって、ミミは勇気づけられたのだと考えられる。自分に憧れて自分と同じ道を志したそら。そのそらのアクセサリーに「魔法」がこめられていたからこそ、ミミは「恐れ」を克服することができたのだろう。

 ミミはそらとの交流を介して、旅先のどこかまったく新しい場所でも、ファッションの魔法を通じて、再び誰かと豊かな関係を結ぶことができるという希望を抱き、それを「恐れ」を克服する助けとした。だが、いかに魔法の力があろうとも、自由を求め続ける限り孤独の恐怖のみを完全に消し去ることはできない。それでもミミは自由な旅を続ける。

 ステージ後のそらが思い浮かべたミミの姿とは、そうした「ファッションの魔法」の力を信じながらも、心に恐れを残しながら前へと進んでゆく姿だったのだと考えられる。そして、そらもまた「恐れ」を抱きながらも前に進もうと、ブランドを立ち上げたのだった。

 そらの「恐れ」は不自由になることへの恐れであったが、これは表現を生業とする者についてまわる責任である。セイラが「アイドルが風邪を引いてもステージに立たないといけないのと同じか」と例示したように、何かを表現しようとする者は、それをプロとして果たし続ける責任と向き合わなくてはならない。責任を背負い、自身の自由を犠牲にしてでも、人に「ファッションの魔法」をかけていく道をそらは選んだのだ。

 ミミは砂嵐の中へ消え、そらは潮風に吹かれながら降り始めた雪を受け止める。砂漠と海辺、砂と雪という対照的な光景から、ミミとそらとの立ち位置の違いが浮き彫りになる。孤独に耐えて自由な道を歩むミミと、不自由なポジションに身を置いてでもファッションで人を自由にしようとするそら。それぞれがそれぞれの道を歩んでいく。

 しかし二人を包む情景には、共有されるものもある。それは、そらの髪色である、青から紫へのグラデーションがかった色の夕暮れの空だ。

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 「誰かを元気にできたかな。私のボヘミアンスカイ…」

 

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その他各シーンについて

早朝、そらの部屋。インテリアに注目すると、マラケシュの部屋のそれと非常に似ていることがわかる。

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ランプ、絨毯、ベッドの柄など、そらが幼少期のマラケシュでの体験に大きな影響を受けていることが伺える。

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ティアラ学園長の

「次のステップに進んでもらうアイドル、決めたんだ」

「風沢そら」

という台詞の後、そらの部屋へと場面が移る。風が吹き込みカーテンが揺れる。

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この風が吹き込みカーテンが揺れるカットはこのエピソードの中で繰り返し描かれる。

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ミミが旅立ったあとの部屋。

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ブランド名をボヘミアンスカイに決めるところ。この後ベッドに腰掛けスケッチブックに「Sky」を書き加える。

風と空はこの回を通して繰り返し描かれるモチーフであるが、特に風は新たな出発のイメージと結びついていることがわかる。

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部屋にミミがいる時のカット。カーテンは揺れておらず、無風である。

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窓際で「クルクルキャワワ」と唱えながら自分の髪を整えるそら。すぐ右手にある鏡を見ながらではなく、窓の外の空を見ながら行っているところに、これが身だしなみを整えるための行動ではなく、おまじない的な行動だということが示されている。

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クラスメイト?に対して、服装、髪型、メイクを手直しし、仕草と表情にアドバイスするそら。きいとセイラにアクセサリーをプレゼントするところも含め、そらが人にファッションの魔法をかけることを好むことが繰り返し表現されている。

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 そらへの「魔法をかけてもらったみたい」という少し不自然な台詞。特に目的がなければ「魔法みたい」と言うのが自然だろうか。後にそらがミミに対して言う「魔法にかかったみたい」を引き立たせるために、あえて引っかかりを作っていると考えられる。

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きい「エスニックに、ウエスタンに」

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エスニックで指される服(右側)はラスタカラーをフィーチャーしている。

そら「ボヘミアン

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ボヘミアンで指される服はカフタンのワンピースのようだ。カフタンはトルコなどのイスラム圏で着られる民族衣装であって、モロッコでも着られている。

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ティアラ学園長の「デザイナーとして自分のブランド作っちゃいなよ」に対する他生徒のリアクションについて、音では「ブランドだって!」「すごいよそらちゃん!」「頑張ってね」などの歓声が上がっているのだが、画の方では周りの生徒は困惑の表情を浮かべている。

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この描写のぶれは興味深い。困惑した表情の生徒たちがデザインコースの生徒で、歓声を上げているのは見学に来ている他コースの生徒である、と読むのは深読みかもしれないが、ブランド立ち上げが手放しには喜べないことだと演出する効果はあるだろう。

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セイラ、きい、そらそれぞれのスリッパ。

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そらのスリッパはモロッコのスリッパ・バブーシュのようでもあるが、バブーシュはかかとを踏んで履くのが特徴なので違うかもしれない。きいのワニスリッパがかわいい。

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マラケシュの街並み。これはマラケシュの観光名所であるジャマ・エル・フナ広場そばにある、Cafe de Franceの最上階テラスから観た景色と一致する。→参考ページ

このジャマ・エル・フナ広場は、各地から集まった芸人が様々なパフォーマンスを行っており、昼夜問わず人波であふれている場所だ。こういったオープンな広場が存在するマラケシュという街を舞台に選んでいることが、踊りで人を集める行商で生計を立てるボヘミアンのミミという存在に更なる説得力を与えている。

また、最後にミミは街を去り砂漠へと足を踏み入れる描写があるが、これもマラケシュがかつてサハラ砂漠のキャラバン貿易で栄えた、砂漠と縁深い内陸の都市であることをうまく要素として活かしている描写だ。実際はマラケシュと砂漠は面しておらず、砂漠へ行くにはアトラス山脈を越えなくてはならないのだが、マラケシュを発ったミミが砂漠へと向かう、という描写にはかなりの妥当性があるといえる。

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ボヘミアンのミミ。「ボヘミアン」は様々な意味を持つ語だが、ここでは民族としてのボヘミアン(ロマ、いわゆるジプシー)か、流浪する生活様式としてのボヘミアンかのどちらかの意味だろう。61話でのボヘミアンについての説明は後者の生活様式についてのみである(そら「ボヘミアンっていうのは、自由な生活をしている人々のこと」)。しかし、続く62話のらいちが書いた壁新聞の記事には少数民族ロマへの言及があり(参考ページ)、またミミの服装がジプシー的なものであることもあり、少しややこしいことになっている。

私は自由に放浪するヒッピーの言い換えとしてボヘミアンという語を用いているのだと解釈している。ロマは自由な生活をしているわけではないし、61話のステージでそらが身に着けていたアクセサリーが『オリエンタルリブラヒッピーバンド』であったこともそれを裏付けているように思える。

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Kira・pata・shiningのCGシーン。

そらが出てくる建物はインド様式のモスクであるように見受けられる。モロッコのモスクとはドームの形状やミナレット(鐘楼)の形が異なっている。

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調べた中で一番形状が似ていたのはタージマハルのモスク。

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前述のロマもインドにルーツをもつ民族であり、インドとモロッコのイメージが繰り返し重ねられていることは非常に興味深い。インドとモロッコの共通項として、かつてヒッピーの聖地であったという点もあげられる。

このムービーは放送できる最高のサイケであり、分身など幻惑的な表現が多用されている。この曲は67話にも用いられており、そちらはそらと蘭とのステージで、背景が万華鏡的に変化するエフェクトが追加されるなどよりサイケ度が増している。

61話と67話のステージを比較してみると、61話のステージにのみ用いられている特徴的な演出があることがわかる。そらが扉の前で立ち止まり、空を見るこのカットだ。DCD版ではたいまつに火が灯っていく演出の部分である。

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扉の前で立ち止まり、壁と扉が消え彩度の低い空が僅かな時間だけ映る。ここの空の描かれ方はこのCGステージ中でも異色である。以下の画像と比較してみよう。

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雲の量、形状や、光線の効果が雲の上に乗っているところなど、ここの「空」の描写が他と大きく異なっていることがわかる。

閉じた扉の奥に広漠とした空を見つつも、妖しげな笑みを浮かべながら堂々と扉を開いてゆく風沢そら。恐れを抱きながらも魔法をまとって前へと進んでいくそらの強さが感じられるシーンだ。扉を開く描写を、ミミの「少し怖くなったんだ。新しい扉を開くのが」という台詞ともかさねてみることもできるだろう。

61話においてきいはそらの悩みを解きほぐす重要な役割を果たすが、それがきいによってなされたのはなぜか、という点について考察する、天秤氏のブログ記事を紹介したい。

azure19s.blog.fc2.com

61話を読み解く上で非常に参考になるものであり、また、このレビューに欠けている視点でもあるので、紹介させていただいた。ご一読を薦めたい。

 

 

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おわりに

61話に関してはこのような記事も書いているので、こちらもぜひ。

『僕の変な彼女』を読む

 この文章は『僕の変な彼女』(三浦よし木 作)という短編マンガを私はこう読んで楽しんだ、という読解を記したものだ。この文章を通して、私が読んで楽しんだものを具体的に示し、それがこの作品が固有に持つ「面白さ」であることを明らかにすることをめざしたい。

 『僕の変な彼女』を初めて週刊Dモーニング(2015・ 24号)で読んでから、何度この47Pの短編を読み返したか確かでない。確かではないがたぶん30~50回くらいの間だと思う。はじめの数度は読むたび涙があふれてきた。そこから更に繰り返し読み返し続けると、次第に涙が出なくなってきた。涙が涸れたのではなく、読むことで与えられる刺激のパターンに耐性 がついてきたのだ。しかし、泣けなくなったからといって、それで飽きたというわけでもない。まだまだ読むたび新しい発見があり面白い。更に更に読み返し続ける。もう新しい発見もなくなってくる。しかしそれでも面白い。ページをめくって絵と台詞と、枠線と効果線と描き文字へと目を滑らせて、キャラクターの体や心の動きや、このマンガが固有にもつうねりに身をあずけるだけで快く感じることができた。

 まとめると、私にとってこの作品は、初読のインパクトがあり、再読を許す奥深さがあり、そして私を魅了する詩情のうねりに満ちているものだということだ。

  今回重点的に語りたいのはこの作品の「再読を許す奥深さ」についてだ。作品の詩情について語るのは難しいのでパスしたい。また、初読のインパクトについて 語るのは、私はこう受容したという客観性のない自分語りとなってしまいがちだからこれもパスする。もちろん面白い自分語りというものも存在するし、そういう文を書きたい気持ちもあるのだけど、今回は「作品固有の面白さ」を追求するのが目標なので、あまり触れないことにする。

 

 そろそろ作品について具体的に述べていこう。

  まずあらすじ紹介。この作品は、普通のサラリーマン・大介が、1年前に別れた元彼女のゆりの葬儀に参列するところから始まる。葬儀の後、海岸でゆりのこと を回想している大介のもとに、「股間のおばけ」となったゆりが現れる。ゆりが成仏できなかったのは大介のことが忘れられなかっためであり、ゆりは成仏する ために大介とHすることを望む。

 大介は自室におばけ姿のゆりと共に帰るが、ゆりの積極的な性的アプローチに困惑する。ゆりがかつて「変な子」だったことを思い出す大介だが、ゆりとのコミュニケーションを重ねるごとに、かつての、そして現在のゆりの変な振る舞いの理由を知る。ゆりの気持ちに応えて、大介がゆりを抱くと、ゆりは股間のおばけから人の姿に戻る。ことが終わった明け方、ゆりは愛の言葉を残して消えてしまう。

 大介は喪失感を抱えたまま、砂浜を歩き続ける――というシーンで、この物語は終わる。

 

  この物語はある一つのアイディアを軸に組み立てられている。それは、ゆりが自分を「変」に見せようとするゆりの内面と、ゆりの姿を「変」に描くゆりの外見 描写が重なりあっている、というものである。ゆりが奇矯に振る舞おうとするとき、ゆりの姿は人間離れした「変」な姿で描かれる。

 これは一見当然のことのように思える。変な振る舞いをしている人が変に描かれるのだから。だが、ここで重要なのは、誰か他者から見て変に見えるから変に描かれるのではなく、あくまでゆりの内面を反映した結果、変に描かれるということだ。

  この違いを説明できる例として、P16の2-3コマ目「ちんちんくーん」「って/この子が」とP17の2-3コマ目「また来てね」を挙げたい。どちらもま んこを架空のキャラクタの口とみなして、ちんこを擬人化した「ちんちんくん」に腹話術で語りかけるというシーンだが、P16の3コマ目が変な姿で描かれて いるのに対し、P17の3コマ目はまつげも生えそろった、普段のゆりの姿として描かれている。P16では自分を変に見せるための振る舞いとして腹話術を 行ったのに対して、P17では大介から「ごめんね/いつも満足させて/あげられなくて」と言われたことに応えようと、相手を思いやる気持ちで腹話術を行っ ている。このゆりの内面の変化が描画に表れているのだ。

 そして、その規則にしたがって、おばけのゆりは人の姿を取り戻す。ゆりがおばけの 姿である=変な振る舞いをしてきた ことの理由も全て理解した上で、大介がゆりをおばけの姿のまま受け入れてくれたから。「ありがとね」「変な格好して/来てくれて」ゆりが自分の弱いところ を全てさらけ出して、その上で愛してもらえたから。変であると自らを偽る必要がなくなったから、ゆりは人の姿となった。

 ここまで作品を通底するアイディアの機構について説明してきたが、ここからはこのアイディアがどう物語に活かされているかを考える。

  そもそもキャラクターの内面に外見の描写が対応するという表現自体は、マンガ表現の中では非常に高い頻度で用いられる基本的な技法でもある。P7の1コマ 目の、大介の顔の上に描かれる複数本の縦線(いわゆる垂れ線)や、2コマ目の、大介の体の輪郭が波打っている描写などもそれの一種である。こういった描写 の理解をマンガ読者は特に意識することなく行っている。顔に入った縦線であれば、そのキャラクタが「状況に対してネガティブである」という意味であると か、体の輪郭の波打ちであれば、そのキャラクタが「状況に対して慌てている」という意味であるといったように、マンガに慣れた読者は解することができる。 こういった記号を私たちはたくさん知っているはずだ。怒りを表す記号、脱力を表す記号、高速で移動していることを示す記号、などなど、私たちには様々な記 号を意味に変換するコードがあらかじめインストールされている。

 しかし、『僕の変な彼女』における「ゆりのおばけの姿=ゆりの変であろう とする自意識」という変換コードを、はじめ読者は持っていない。キャラクターの内面がキャラクターの外見に影響を与えうることは知っていても、ここまで大 胆に内面が外見を規定する関係性があるとは思わないだろう。

 物語を読み進めていくうちに、読者は自然とこのコードを物語の展開に合わせて 少しずつ理解してゆくことができる。そして、物語のクライマックスであるゆりのメタモルフォーゼのシーンで、この物語に通底するそのコードの存在を確信す ることとなる。P35、1-3コマ目は普通の人型ゆり、4コマ目は変な人型、5-7コマ目はおばけの姿であるが、ここの4コマ目において、ゆりがまた自分 が変でなくてはならないと思ったことは明らかである。この描写により、この作品で描かれるゆりの外見(普通の人-変な人=変なおばけ)がゆりの内面と直接結びついていることを読者が確信できるようになっている。既に大介はゆりの「変」な振る舞いをもひっくるめてゆりを愛しく抱きしめられるようになっている ため、ゆりの姿を変化させる原因は、ゆりの内面以外ありえないのだ。この表現上の構造に気付く興奮と、物語上の盛り上がるポイントが合わさることにより、 ゆりのメタモルフォーゼはより読者の印象に残るものとなっている。

 さて、ゆりの描写がこの作品独特のルールに支配されていることはわかったが、それではもう一方の大介についてはどうだろうか。

 大介の姿形の変化は非常にわかりやすい。古めの少女漫画ギャグ調のデフォルメ・記号のみで描写されている。若干古くさいとも感じられる描写であるが、この古くささこそが実は重要な点で、大介が「普通」であるというところと対応しているのだ。

 普通な大介は普通に、変な彼女のゆりは変な風に、内面と外見が結びついている。普通な彼氏と変な彼女の物語の構図が描写のレベルにおいても現れてくるということ。これもまた、このマンガの奥深い面白さの一端である。

 

  今回取り上げた内面=外見のアイディアの部分以外にも、スクリーントーンが登場人物に貼られるのは性器とその影のみであることについての考察とか、それな ら冒頭のカラーはモノクロのほうがより良かったんじゃないかとか、応募段階だと「股間のおばけ」じゃなくて「まんこのおばけ」だったのでは説とか、P43 の5コマ目でペニスの萎えを描くことによって漏れ出した精液を暗示しそれによって涙を表現している説とか、語りたいことはたくさんあるのだけれども、語り続けると延々長くなって、どう終わらせたらいいかわからなくなってしまいそうなので、一旦ここまでにしておく。

レストー夫人・きろくノート

レストー夫人・きろくノート  【2014-2-X】

 

レストー夫人 (ヤングジャンプコミックス)

レストー夫人 (ヤングジャンプコミックス)

 

 

  『レストー夫人』とは、三島芳治が雑誌『アオハル』及びWebサイト『アオハルオンライン』にて連載したマンガ作品だ。2014年5月に単行本化された。

 これは警告であるけれども、このレビューは『レストー夫人』を読了済みの方に宛てて書かれたものであって、本編を未読の方がこれを読むことは推奨できない。このレビューは私が『レストー夫人』をいかに読んだかという記録であって、あらゆるレビューがそうであるように、これはある種の二次創作としての性質をもつテキストだ。つまり、このレビューは私が語り直す『レストー夫人』という物語だ、ということもできる。もしあなたが『レストー夫人』を未読であるならば、あなたはそのオリジナルからあなた自身の『レストー夫人』を紡ぐことを薦めたい。今すぐブラウザを閉じるなり最小化するなりしてから、ゆっくり本屋へ向かうと良いと思う。きっと後悔はしないはずだ。

 

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