末吉日記

マンガとアニメのレビューとプリズムの煌めき

アイカツ!85話「月の砂漠の幻想曲」 そらの理念、蘭の実践

 アイカツ!85話「月の砂漠の幻想曲」は私の大のお気に入りであるキャラクター、風沢そらがメインで活躍する回なのだが、このエピソードを初めて見終えた時には、どうにも腑に落ちない、奇妙な回のように感じられたのだった。

 そのもやもやを解消すべく、85話をつぶさに観返して自分なりにこのエピソードを分析した。その結果、このエピソードをうまく消化するための一筋の道を見つけることができた。それは、風沢そらがもつフェミニズム観、という切断面である。

 85話は、そらが自らの信念に気づき、それを貫こうとする物語として読めるが、その信念とは自らがなりたいと願う「お姫様」の在り方にまつわるものである。そらは姫の衣装の制作に取り組むが、そのデザインには女性を解放しようとするフェミニズム的意図を読むことができる。以下この記事では、風沢そらとフェミニズムについて詳しく語ってゆく。

(17/4/29 編集)

(18/12/28 編集)

(20/06/3 編集)

 

 風沢そらは姫のドレスを二度デザインする。初回のデザインに影響を与えたものとして、イスラム圏の女性の服装について書かれた書籍が描かれている。

f:id:yoshidastone:20150701105147j:plain

 「イスラム圏の女性は、頭を含めた体全体を隠す服装をすることが多い。衣装の種類としては、アバヤ、ヒジャブ、ニカーブなど、様々。」と開かれた本には記載されている。この記述がそらのデザインとどう関係するのか検討したいところだが、ひとまず先に、この本がどのような文脈でエピソードに現れたかを見ておきたい。

 Bパート・アイキャッチ直後。そらの部屋で、そら、きい、セイラが、そらと蘭が主演するドラマで、そら自身がデザインし、そらと蘭が着用することとなっている衣装のデザインについて話している。このシーンでこの本は映しだされる。

(そらが女剣士と姫の衣装デザイン案のイラストをセイラときいに見せる)

 きい 「姫のドレスはひらひら一杯で可愛い」

 セイラ「そらがこれを着たら本物のお姫様みたいに見えるんだろうな」

(そら、曇った表情で机へ向かって歩き出す)

 そら 「お姫様か…」

(そら、机の前で立ち止まり、首だけ振り返る)

 そら 「二人の中のお姫様ってどういうイメージ?」

 セイラ「それは…美しくて清楚で可憐で」

 きい 「守ってあげたいってイメージ」

 そら 「そっか…」

(そら、曇った表情で机に向き直る)

 そら「色々調べてイメージ通りのドレスが出来たはずなのに」

(そらの机の上が映される。いくつかの資料が並んでいる。イスラム圏の男性の服装、女性の服装についての本がそれぞれ映される(前掲のカットはここ))

 そら 「私のなりたいお姫様って…」

(そらの悩み顔がアップになる。ここで場面転換)

 一連のやりとりから、そらの言う「イメージ通りのドレス」とは、セイラやきいが思うような「守ってあげたい」=被庇護者である姫のイメージにそぐうものであることがわかる。そしてそのイメージが、「イスラム圏の女性のイメージ」と重なりあうものであるように示されている。つまりそらは、姫を被庇護者としてイメージし、そのイメージ通りのドレスをデザインしてみせているのだが、実際のところそのデザインには納得がいっていないのである。

 このデザインは破棄され、新たなるドレスがデザインされる。スターライト学園で目撃した、殺陣に打ち込む蘭の姿に感銘を受けたそらは、「一緒に戦うお姫様」のイメージを基にドレスをデザインし、このドレスを着用してドラマのオーディションに挑む。

 この二着のドレスの比較から、そらの思考が浮かび上がってくるものと考えられる。加えて、ドラマの企画書に記載された剣士と姫のイメージ画も比較の対象としたい。企画書の画とはクライアントの求めるお姫様像を如実に表すものであり、デザインにあたってそらはこの画も参考にしたと考えられるためだ。

企画書のイメージ画、初期デザイン、最終デザインの順に並べ、それぞれ比較してゆく。

・ドラマ企画書のイメージ画

f:id:yoshidastone:20150701115848j:plain

・初期デザイン

f:id:yoshidastone:20150701114709j:plain

・最終デザイン

f:id:yoshidastone:20150701114826j:plain

 

 まず企画書のイメージ画と初期デザインの違いについて検討する。企画書の姫のドレスはノースリーブ・へそ出しと露出が強めであるが、そらの初期デザインはそうではない。この露出の少なさは、書籍から得た「イスラム圏の女性は頭を含めた体全体を隠す服装をすることが多い。」という情報を念頭に置いたデザインと考えられる。初期デザインではドレスの袖・裾の丈も長く、企画書では半透明だった頭に着けたヴェールも、不透明な布へと変えられている。

 続いて、初期デザインと最終デザインについて検討する。最終デザインでは、ドレスの袖と裾が短くなり、髪を隠す布も取り去られている。そらは殺陣に打ち込む蘭の姿を見たことにより、「守られる姫」から脱却するデザインを狙ったわけだが、このたくらみは、イスラム圏の「女性は体と髪を隠すもの」という規範から敢えて外すことにより表現されたのである。

 つまりそらは、企画書イメージ画を念頭に、イスラム圏での女性のドレスコードを織り込むかたちで初期デザインを描いたが、後にそのコードを意図的に破ったドレスをデザインすることによって「守られる姫」像を棄却し、「女剣士に憧れ、近づこうとする姫」像を表現しようとした、と結論できる。「世間の姫のイメージ」と「イスラム圏の女性」との間に「守られる」存在という共通のイメージを見いだし、守られるばかりであった姫を、髪や体を隠す布を外すことによって解放するように表現したのである。

 

 このそらのデザインを、西洋的リベラル・フェミニズム理念に基づくイスラム女性へのまなざしのあらわれとみることが可能だろう。女性が髪や体を隠すのは女性を守るために必要なことである、という考えはイスラム社会においては一般的なものだ*1

 そのムスリムの考えに基づくヒジャブやブルカ、ニカーブといったイスラム女性の服装は、リベラルさを追求する西洋のリベラル・フェミニズムの視点からは、イスラム社会による女性への抑圧のシンボルとして解釈されるようになった。フランスにおいてブルカ禁止法が2010年に制定されたのは記憶に新しいが、この法制定の根拠はライシテ(フランスにおける世俗主義、公共空間における非宗教性の追求)の概念と、女性解放の文脈の二本柱であったようだ*2

 この公正さを追求するためにブルカを排斥するというやり方には疑問の声もある。女性のブルカを禁止しても、女性にブルカの着用を促すコミュニティの思考体系が変わらない限りは、かえって女性を家に縛り付けることとなってしまう、という批判がある*3

 ブルカというシンボルのみを槍玉に挙げても、イスラム社会の男性本位さ、女性差別に対する本質的な批判とはならない――これがフランスのケースから得られるひとつの論理的帰結であるが、『アイカツ!』68話において風沢そらが直面する問題は、このフランスの事例をなぞるものとしても読むことができる。

 前述のとおり、風沢そらは姫に負わせられた「被庇護者」という固定観念からの解放を意図してデザインを修正した。そしてドラマオーディション中、そらはその思想をより鮮烈に表現すべく、剣を手にとって戦うというアドリブをみせる。だが、そらの取ったこのアクションに対し、ジョニーは「そんなへっぴり腰じゃ野菜も切れナッシングだぜ」と揶揄し、殺陣の師範も「しっかりアクションを仕込む時間は用意してくださいよ」と皮肉めかして言う。

 ここで浮き彫りとなるのは、ジョニーや殺陣の師範が評価において何よりも優先するのは殺陣の出来栄えであり、そらの持つ女性解放の理念などではないということである。そらは「守られる姫」という観念をドラマを通じて取りざたしたいのだが、その論点は、ジャッジを行う側の人間である師範には理解されない。ひょっとしたら理解しているのかもしれないが、それでも彼は殺陣の出来栄えを優先し、そらに対し抑圧的な態度を取る。監督が面白いとコメントしているのは救いであるかもしれないが、のちに監督の理解も浅いことも明らかになる。

 このそらと師範の関係が、フランスにおける事例と重なるものだ。イスラム女性がライシテの理念を受け入れブルカを外そうとも、彼女の属するイスラムのコミュニティがその姿で外へ出ることを許さなければ、結局のところその平等の理念は実践され得ないのと同様に、ドラマのオーディションを行う側の意識が変わらなければ、そらの表現が広く世に出ることはないのである。

 そらはフェミニズム的理念をデザインとして表現し、オーディションで問うことまではできたのだが、それを異なる評価基準が支配的である領域において押し通し、実践するだけの力は持っていなかったのだった。

 そのそらを助けるのが紫吹蘭である。蘭はアクション本位のドラマ価値観の中でオーディションを勝ち抜くために修行を行った。重要なのは、これまで蘭がモデルやアイドルとして表現の根幹としてきた「ウォーキングの立ち姿」や「ダンスで鍛えたステップ」が、修行の過程で師範に厳しく否定されてきている点である。蘭はこれまでモデルとしてのキャリアで美しさの表現に磨きをかけてきたが、その女性的魅力の発露は、ドラマの殺陣において抑圧されてしまう。

 この女性的魅力の抑圧は、そらのデザインにおける、髪・体を隠すコードとパラレルなものである。女性的魅力を抑圧しようとする力が、蘭には殺陣における論理として、そらにはドレスコードとして、目の前に立ち現れてきているというわけだ。

 そらはヒジャブを廃するというアプローチを取ってこの抑圧に抵抗するが、蘭は殺陣の論理を受け入れて殺陣の精進に努める。蘭は師範の言いつけを守る殺陣の技術でオーディションを進めてゆくが、最後の最後で見せる「魅惑の刃・幻想剣」は、これまで蘭が抑圧されてきた自らの女性的魅力を爆発させ、師範らを圧倒する。

 幻想剣とは次のような技だ。

(剣をS字を描くように振りながら)

蘭   「魅惑の刃!」

(発光する剣を大上段に構える)

蘭   「幻想剣!」

(ポーズを決めながら静止。ジョニー驚いて目を見開く。蘭、跳躍。ひねり回転を一回転。ジョニーは見とれている)

ジョニー「ビューリホー」

(蘭、両手で剣を握る。ジョニー両手を広げて)

ジョニー「ワンダホー」

(蘭、剣を振り下ろしながら)

蘭   「これで、終わりだ!」

ジョニー「アンビリーバボー」

(ジョニー、光の粒となって消失)

 蘭が見せる、ポーズを決めながらの静止からはモデルで鍛えた立ち姿が、跳躍して回転する動きからはダンスで鍛えた身体表現力が示されているといえるだろう。DCD版のムービーでは剣をS字に動かし技名を叫ぶ→暗転に剣戟のエフェクト→チームアピールチャンス→ジョニー倒れる というシークエンスになっている。このことからも、幻想剣は殺陣の技術とアピールの表現力の複合によって繰り出される技であり、ダンスなどのステージと共通する表現の要素が盛り込まれた技であることを確かめることができる。

  蘭の女性性の魅力がそれを抑圧してきた論理である殺陣と結びついて花開き、その論理を押し付けてきた存在であったジョニーを、師範を圧倒するという展開。この蘭の行動を、社会を支配している規範に入り、その内側から女性を解放していく、女性解放のひとつのプロセスとして読むことができる。

 そらの理念的-デザインと蘭の実践的-殺陣とダンスの融合、という対比、そしてその両者が手を取り合ってゆくことによって、「守られる姫」という課題は解決される――これが85話で語られたことである。そして、その課題についてはオーディションの後に、どう解決されたかが示される。写し出されるのは大きく引き伸ばされたドラマのポスターだ。

f:id:yoshidastone:20150703071130j:plain

 姫が女剣士に守られる構図である。

 結局、そらの「守られる姫」像からの脱却という理念は、監督に「面白い」と言わしめることはできたものの、ドラマの全体的なコンセプトまでは変えることはできなかったということである。このポスターが、先にあげた企画書における剣士と姫二人の構図とそっくりそのままであることからも、現実は一朝一夕には変わらないという重い結果が読み取れる。

 だが、それと対称的に、続いて流れるドラマのラストシーンと思しきカットは希望に満ちあふれたものである。

f:id:yoshidastone:20150703100942j:plain

 手を取り合って、幸せそうにどこまでも飛んで行く二人。しかし、そらと蘭の声には、劇中劇性を強調するように、スピーカーから流れるものであるように聞こえるような音響エフェクトがかけられている。これは虚構性を強く演出するものといえるだろう。理想通りに変わらない重い現実と、美しい虚構の対比である。

 しかしその虚構が虚構であるがゆえに、現実を離れた純粋な祈りとして受け止めることができる。理念と実践をそれぞれ携えた二人の女性が手を取り合って三日月と星空の夜をどこまでもゆく、自由で幸福な女性たちの未来――。そんなビジョンを、アイカツ85話というエピソードは、現実の切れ間からそっと見せてくれたのではないだろうか。

f:id:yoshidastone:20150703101017j:plain

 

-

その他もろもろ

スターライト学園で蘭が特訓する際、かえでが斬りかかって来た時だけ、蘭は笑みを浮かべる。

f:id:yoshidastone:20150703080254j:plain

f:id:yoshidastone:20150703080321j:plain

 なぜ蘭はかえでに対してのみ笑みを浮かべたのか?これを読み解く鍵はJAKにて師範にダンスのステップを批判される際のシークエンスにある。

f:id:yoshidastone:20150703080739j:plain

いちご「かっこいい!なんだかダンス踊ってるみたいね」あおい「うん!」

f:id:yoshidastone:20150703081419j:plain

あおい「ウォーキングで鍛えた立ち姿もキマってる」

f:id:yoshidastone:20150703080816j:plain

師範「ストーップ!」

 ここでは画面が揺らされ、師範の批判が非常に強いものであることが演出されている。

 この批判の後、蘭がすり足で移動するように矯正されているカットが入る。跳躍→すり足という対照。

 蘭にとっての「跳躍」はダンスと結びついた行動であることがここからわかる。つまり、かえでが斬りかかってきたときに笑みを浮かべたのは、かえでの斬撃に対して「跳躍」して避けた、禁止されたはずのその跳躍の楽しさから、つい笑みを浮かべてしまった、というのが理由ではないだろうか。そしてそれは、蘭が幻想剣を、高々とした跳躍で舞い上がりながら笑顔で放つことへの伏線でもあるだろう。

f:id:yoshidastone:20150703082304j:plain

幻想剣!

 

 オーディション直前、師範に対する二人のお辞儀の角度の違い。

f:id:yoshidastone:20150705162314j:plain

 そらは軽く目礼、蘭は最敬礼している。師範というドラマ的(=女性抑圧的)価値基準に対する二人の意識の対比として見ることができる。蘭はその価値基準を深く内面化しているのに対し、そらは比較的軽視している。そらは師範が何を言っているかよりも、それに対して蘭がどう応えたについて注目している。

 師範がオーディションについて説明した後、師範の「しっかり見せてもらうぞ」の台詞に対して、蘭は「はい!」と応える。するとそらは蘭の方を向き笑顔を見せる。

f:id:yoshidastone:20150705165242j:plain

 そらが、蘭が殺陣という自分のメインフィールドではない新しい場所で輝こうと頑張っていることについて、好ましく思っていることがわかる描写だ。

 そらが蘭に向ける好意は、そらが蘭の殺陣の特訓を見ているときに生まれたものである。この好意がどのようなものかについては解釈の幅があるが、剣士という本来男性的である役割を蘭が努力によってつかもうとしていることに対する好意として捉えられると私は考えている。ジェンダーの壁を越えることに対して、そらは非常に好意的である、ということだ。そして蘭に感化されて、そらもまたジェンダーの壁をドレスのデザインによって越えようとするのだ。

 

 

 風沢そらは幼少期をモロッコで過ごした人物であるが、モロッコの「姫」にLalla Aicha(1930-2011)という人物がいる。スルタン・ムハンマド5世の娘であり、国王ハサン2世の姉であるこの人物は、イギリス、ギリシャ、イタリアのモロッコ大使を歴任した、歴史的な活躍をみせた女性である。イギリスではアラブ出身の女性として初めて大使となった人物として話題となり、TIME誌の表紙を飾ったこともある。

f:id:yoshidastone:20150703091317j:plain

 Nov11,1957,Vol.LXX,No.20のTIME誌表紙。ムスリム女性の解放という題がつけられており、手前の洋装を着て髪を露わにするプリンセス・アーイシャと、奥の全身を布で覆ったムスリム女性の対比が描かれている。

 彼女はモロッコの近代化のために女性の教育の必要性、婚姻関係における法的地位の改善を説き、女性解放に努めた。アーイシャの姿が、モロッコで過ごした風沢そらが抱く「姫」のイメージになんらかの影響を与えていたのかもしれない。

 

 そらと蘭を西洋的リベラル・フェミニストと実践的なフェミニストと読み替える読解を今回行ったけれども、現実のイスラム社会でも、その両者の連携によるフェミニズム運動が盛んになってきているようだ。実践的というのはあまりぴったりくる言葉ではなく、しっくりくる言葉を見つけられないことにやきもきしているのだが、ここではイスラム主義を前提にして、クルアーンイスラムの古典的テクストを男女同権的に読解するという動きのことを実践的と呼んでいる。この動きは、イスラム教徒によるイスラム教徒のためのフェミニズムともいえるだろうか。エジプトのマラーク・ヒフニ・ナシーフ(1886-1918)に端を発し、現在も活動中である著名人としてはモロッコのナーディア・ヤースーン、アメリカ出身のアミナ・ワドゥードなどがこの活動を行っている。

 西洋的リベラルフェミニズムイスラム主義の連携について触れられている記事を2本紹介する。随分と遠くまで来てしまった感があるが、私はここに、アイカツ85話のテーマと共通する問題意識を感じている。

女性の価値が”男性の半分”しかない国 現地の女性活動家が語る、パキスタンのリアル|ウートピ

Fatima Sadiqi on モロッコの、ベールを被ったフェミニスト達 - Project Syndicate

 現実社会との対応といえば、インドネシアでの放送がどのようなものになるかについても今後注目したいところだ。そのまま放送されるのだろうか?→されたようだ(17年4月29日追記)

 

 当初この回サブタイトルを「月の砂漠の狂想曲(ラプソディー)」と書いていたが、正しくは「月の砂漠の幻想曲(ラプソディー)」であった。(指摘していただいた生姜維新さんには多謝申し上げます。)ドラマのタイトルは狂想曲であったので、てっきりサブタイトルも同じかと思ってしまっていたのだった。訂正ついでにラプソディー(rhapsody)について調べてみると、音楽ジャンルとしてのラプソディーに対応する語は「狂詩曲」である。一応ラプソディーを「狂想曲」と訳す例もあるようだが、狂想曲と対応する語はカプリッチオ(capriccio:伊)のほうが一般的のようだ。幻想曲はファンタジア(fantasia:伊)であり、アニメサブタイトル、ドラマのタイトル、どちらとも違和感のある形になっている。狂想曲にラプソディーという語を当てるのはそういう訳例もあるので理解できるが、幻想曲にラプソディーは、何らかの意図がなければまずやらないルビの振り方ではないだろうか。その意図とは何だろうか?

f:id:yoshidastone:20150705162049j:plain

 仮説をひとつ挙げておく。rhapsodyという語には、(…についての)高揚した感情の表現,熱狂的発言,情熱的な文章 という意味もある*4。85話に描かれる「高揚した感情の表現」といえば他ならぬ幻想剣のことであるだろうし、それゆえに「幻想」曲にラプソディーというルビが振られたのではないだろうか。

 

 

参考文献・URL

イスラームのフェミニズム│mukofungoj ĉiuloke

ロッコを知るための65章 私市正年、佐藤健太郎(編著)第57章「フェミニズム運動」 明石書店 2007年

*1:http://www.aa.tufs.ac.jp/~masato/harem.htm 飯塚正人 ハーレムの外へ ―北アフリカにおける女性の社会進出とイスラーム― より引用:「ムスリムは男女が同じ空間を共有することに異常なまでに敏感であるが、それはなぜか。ムスリム男性が公けに問われた場合、答えは決まっている。すなわち、イスラームは女性の体を傷つきやすいものと考え、これを男性から守るために隔離を実践してきたというのである。」

*2:ブルカをめぐる熱い論争(2): Mozuの囀「ゲラン議員のブログにあった決議提案文の中のモチーフを説明している箇所の訳」より引用:「イスラムのスカーフは宗教への帰属の明白な徴をなしていましたが、ここで我々はこうした実践の極端な段階を前にしているのです。これは誇示的な宗教的表明のみならず女性の尊厳、女性性の表明に対する攻撃であります。ブルカないしニカブを纏うことで女性は閉鎖、排除、屈辱の状態に置かれます。その存在すら否定されるのです。」

*3:ムスリマ(イスラム教徒女性)の衣装を法律で規制するべきか--イアン・ブルマ 米バード大学教授/ジャーナリスト | トレンド | 東洋経済オンライン | より引用:「なぜブルカを禁止するのが好ましくないか、もう一つ現実的な理由がある。真剣に移民の受け入れを考えているのなら、移民ができるだけ自由に公的な場所に出掛けることを奨励すべきだからだ。ブルカを禁止することは、女性を家庭に強制的に閉じ込めることになり、外部の社会との交渉を今以上に男性に依存させることになる。」

*4:rhapsodyの意味 - 英和辞書 - 英語辞書 - goo辞書