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末吉日記

マンガとアニメのレビューとプリズムの煌めき

『僕の変な彼女』を読む

 この文章は『僕の変な彼女』(三浦よし木 作)という短編マンガを私はこう読んで楽しんだ、という読解を記したものだ。この文章を通して、私が読んで楽しんだものを具体的に示し、それがこの作品が固有に持つ「面白さ」であることを明らかにすることをめざしたい。

 『僕の変な彼女』を初めて週刊Dモーニング(2015・ 24号)で読んでから、何度この47Pの短編を読み返したか確かでない。確かではないがたぶん30~50回くらいの間だと思う。はじめの数度は読むたび涙があふれてきた。そこから更に繰り返し読み返し続けると、次第に涙が出なくなってきた。涙が涸れたのではなく、読むことで与えられる刺激のパターンに耐性 がついてきたのだ。しかし、泣けなくなったからといって、それで飽きたというわけでもない。まだまだ読むたび新しい発見があり面白い。更に更に読み返し続ける。もう新しい発見もなくなってくる。しかしそれでも面白い。ページをめくって絵と台詞と、枠線と効果線と描き文字へと目を滑らせて、キャラクターの体や心の動きや、このマンガが固有にもつうねりに身をあずけるだけで快く感じることができた。

 まとめると、私にとってこの作品は、初読のインパクトがあり、再読を許す奥深さがあり、そして私を魅了する詩情のうねりに満ちているものだということだ。

  今回重点的に語りたいのはこの作品の「再読を許す奥深さ」についてだ。作品の詩情について語るのは難しいのでパスしたい。また、初読のインパクトについて 語るのは、私はこう受容したという客観性のない自分語りとなってしまいがちだからこれもパスする。もちろん面白い自分語りというものも存在するし、そういう文を書きたい気持ちもあるのだけど、今回は「作品固有の面白さ」を追求するのが目標なので、あまり触れないことにする。

 

 そろそろ作品について具体的に述べていこう。

  まずあらすじ紹介。この作品は、普通のサラリーマン・大介が、1年前に別れた元彼女のゆりの葬儀に参列するところから始まる。葬儀の後、海岸でゆりのこと を回想している大介のもとに、「股間のおばけ」となったゆりが現れる。ゆりが成仏できなかったのは大介のことが忘れられなかっためであり、ゆりは成仏する ために大介とHすることを望む。

 大介は自室におばけ姿のゆりと共に帰るが、ゆりの積極的な性的アプローチに困惑する。ゆりがかつて「変な子」だったことを思い出す大介だが、ゆりとのコミュニケーションを重ねるごとに、かつての、そして現在のゆりの変な振る舞いの理由を知る。ゆりの気持ちに応えて、大介がゆりを抱くと、ゆりは股間のおばけから人の姿に戻る。ことが終わった明け方、ゆりは愛の言葉を残して消えてしまう。

 大介は喪失感を抱えたまま、砂浜を歩き続ける――というシーンで、この物語は終わる。

 

  この物語はある一つのアイディアを軸に組み立てられている。それは、ゆりが自分を「変」に見せようとするゆりの内面と、ゆりの姿を「変」に描くゆりの外見 描写が重なりあっている、というものである。ゆりが奇矯に振る舞おうとするとき、ゆりの姿は人間離れした「変」な姿で描かれる。

 これは一見当然のことのように思える。変な振る舞いをしている人が変に描かれるのだから。だが、ここで重要なのは、誰か他者から見て変に見えるから変に描かれるのではなく、あくまでゆりの内面を反映した結果、変に描かれるということだ。

  この違いを説明できる例として、P16の2-3コマ目「ちんちんくーん」「って/この子が」とP17の2-3コマ目「また来てね」を挙げたい。どちらもま んこを架空のキャラクタの口とみなして、ちんこを擬人化した「ちんちんくん」に腹話術で語りかけるというシーンだが、P16の3コマ目が変な姿で描かれて いるのに対し、P17の3コマ目はまつげも生えそろった、普段のゆりの姿として描かれている。P16では自分を変に見せるための振る舞いとして腹話術を 行ったのに対して、P17では大介から「ごめんね/いつも満足させて/あげられなくて」と言われたことに応えようと、相手を思いやる気持ちで腹話術を行っ ている。このゆりの内面の変化が描画に表れているのだ。

 そして、その規則にしたがって、おばけのゆりは人の姿を取り戻す。ゆりがおばけの 姿である=変な振る舞いをしてきた ことの理由も全て理解した上で、大介がゆりをおばけの姿のまま受け入れてくれたから。「ありがとね」「変な格好して/来てくれて」ゆりが自分の弱いところ を全てさらけ出して、その上で愛してもらえたから。変であると自らを偽る必要がなくなったから、ゆりは人の姿となった。

 ここまで作品を通底するアイディアの機構について説明してきたが、ここからはこのアイディアがどう物語に活かされているかを考える。

  そもそもキャラクターの内面に外見の描写が対応するという表現自体は、マンガ表現の中では非常に高い頻度で用いられる基本的な技法でもある。P7の1コマ 目の、大介の顔の上に描かれる複数本の縦線(いわゆる垂れ線)や、2コマ目の、大介の体の輪郭が波打っている描写などもそれの一種である。こういった描写 の理解をマンガ読者は特に意識することなく行っている。顔に入った縦線であれば、そのキャラクタが「状況に対してネガティブである」という意味であると か、体の輪郭の波打ちであれば、そのキャラクタが「状況に対して慌てている」という意味であるといったように、マンガに慣れた読者は解することができる。 こういった記号を私たちはたくさん知っているはずだ。怒りを表す記号、脱力を表す記号、高速で移動していることを示す記号、などなど、私たちには様々な記 号を意味に変換するコードがあらかじめインストールされている。

 しかし、『僕の変な彼女』における「ゆりのおばけの姿=ゆりの変であろう とする自意識」という変換コードを、はじめ読者は持っていない。キャラクターの内面がキャラクターの外見に影響を与えうることは知っていても、ここまで大 胆に内面が外見を規定する関係性があるとは思わないだろう。

 物語を読み進めていくうちに、読者は自然とこのコードを物語の展開に合わせて 少しずつ理解してゆくことができる。そして、物語のクライマックスであるゆりのメタモルフォーゼのシーンで、この物語に通底するそのコードの存在を確信す ることとなる。P35、1-3コマ目は普通の人型ゆり、4コマ目は変な人型、5-7コマ目はおばけの姿であるが、ここの4コマ目において、ゆりがまた自分 が変でなくてはならないと思ったことは明らかである。この描写により、この作品で描かれるゆりの外見(普通の人-変な人=変なおばけ)がゆりの内面と直接結びついていることを読者が確信できるようになっている。既に大介はゆりの「変」な振る舞いをもひっくるめてゆりを愛しく抱きしめられるようになっている ため、ゆりの姿を変化させる原因は、ゆりの内面以外ありえないのだ。この表現上の構造に気付く興奮と、物語上の盛り上がるポイントが合わさることにより、 ゆりのメタモルフォーゼはより読者の印象に残るものとなっている。

 さて、ゆりの描写がこの作品独特のルールに支配されていることはわかったが、それではもう一方の大介についてはどうだろうか。

 大介の姿形の変化は非常にわかりやすい。古めの少女漫画ギャグ調のデフォルメ・記号のみで描写されている。若干古くさいとも感じられる描写であるが、この古くささこそが実は重要な点で、大介が「普通」であるというところと対応しているのだ。

 普通な大介は普通に、変な彼女のゆりは変な風に、内面と外見が結びついている。普通な彼氏と変な彼女の物語の構図が描写のレベルにおいても現れてくるということ。これもまた、このマンガの奥深い面白さの一端である。

 

  今回取り上げた内面=外見のアイディアの部分以外にも、スクリーントーンが登場人物に貼られるのは性器とその影のみであることについての考察とか、それな ら冒頭のカラーはモノクロのほうがより良かったんじゃないかとか、応募段階だと「股間のおばけ」じゃなくて「まんこのおばけ」だったのでは説とか、P43 の5コマ目でペニスの萎えを描くことによって漏れ出した精液を暗示しそれによって涙を表現している説とか、語りたいことはたくさんあるのだけれども、語り続けると延々長くなって、どう終わらせたらいいかわからなくなってしまいそうなので、一旦ここまでにしておく。