末吉日記

マンガとアニメのレビューとプリズムの煌めき

アイカツ、100話と173話に見る『WM』+アイカツベストエピソード14本

書こうかなと思いながらも放置していた美月とみくるについての話をします。100話と173話の話です。取っ掛かりとしてまずこのツイートを検討してみましょう。

 Wは英語だとダブリューですがフランス語ではドゥブルヴェであり、ふたつのVです。ここでみくるがつくるVサインは、分割されたWの片割れであるといえます。というのも、みくるのブランドであるViVid Kissは、その大文字の配置から明らかなように、ふたつのVによってWを表しているからです。ViVidのふたつのVでW、そして美月のLOVE MOONRISEのMと合わせることによって『WM』を成すというのが、ViVid Kissに織り込まれた仕掛けだと思われます。

つまりこのみくるのVサインとはViVidのVであり、Wの片割れであるわけです。ここで言い添えておくと、二人の手を繋いだときのシルエットをMの字と捉えるというのも、CGシーンにおいて二人が手を合わせてWを、脚を重ねてMを表現していたことからいっても、けして不自然な読解ではありません。

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この読みを認めるならば、みくるがMを崩してWの片割れであるVを美月へと突き出すというのは、WMの決定的な破断をみくるがもたらしたことを意味します。

WMの解散は予定されていたことではありましたが、美月はみくるのガーデニングの大会が終わって帰ってきた時には、再び隣に立つことができると思っていたのではないでしょうか。しかし、みくるは美月とライバルとして対決したいと語ります。美月はそれにショックを受けます。アイドルとしての二人のパートナーシップは、ここで完全に断たれてしまったのでした。

 

時は流れて173話、「ダブルミラクル☆」において、WMはスターライトクイーンカップを盛り上げるため、1日限りの再結成を行います。

そのステージ前に、美月は「これがWMのラストステージね」と改めてみくるに解散を明確に告げます。しかしその後、後輩たちのために、一度限りのWMの復活したステージを全力をかけてやり切ることをみくるに求めて、美月はみくるの手を握ります。

このとき、美月がみくるの手を握ることによって、ふたたび“M”のシルエットが生成されています。そしてみくるは美月の求めに応じて、「みくると美月の二人のミラクル、見せちゃおうかな」と二つのピースサインを作ってみせます。

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この二人の行動が100話のやり取りのアレンジである、ということに異論はないでしょう(ご親切に直前にそのシーンの回想まで挟まれています)。手をつなぎMをつくり、ふたつのピースサインをつくり出してWを示してみせるWMのふたり。これは一瞬のまたたきのようなWM再結成を、二人でけんめいに愛おしむ所作にほかなりません。

 

美月がみくるにきっちり解散の意志を告げて(101話では空港へ見送りに行けないと言いながらも流されて見送りに行った美月が!)、あの時切り離されたみくるの手を再び取れるようになったというのは、美月が大スター宮いちごまつりと大スターライト学園祭を経て、いちごやかえで、ユリカと、それに織姫学園長とも絆を結び直すことができた経験の上に立って、初めて成し得たことでした。

美月はかつてのようなこわばった笑みではなく、心からの笑みを浮かべながらみくるを送り出せるようになりました。この美月の姿を見ながら、わたしの心に浮かぶのはTake Me Higherのこの一節でした。

 

「けして完結しない 欲望の中で 生きるのを愛してる」

 

美月の駆け抜けた日々の物語に、彼女の歌ってきた歌が完璧に追いつき、重なった瞬間!これぞまさに、アイカツという物語を追い続けてよかったと思う瞬間でありました。

ああ、神崎美月!ああ、アイカツ!

 

 

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ここからは完全に別の話なのですが、アイカツ!のベストエピソードをチョイスしたけど書くタイミングがなかったやつを、ここでついでに書いておきます。

 

6話   サインに夢中!

16話  ドッキドキ!! スペシャルライブ PART1

17話  ドッキドキ!! スペシャルライブ PART2

30話  真心のコール&レスポンス

32話  いちごパニック

40話  ガール・ミーツ・ガール

61話  キラ・パタ・マジック☆

62話  アイドルはサンタクロース!

71話  キラめきはアクエリアス

89話  あこがれは永遠に

108話 想いはリンゴにこめて

113話 オシャレ☆ヴィヴィッドガール

148話 開幕、大スターライト学園祭☆

173話 ダブルミラクル☆

 

以上の全14本が私的ベストエピソードです。アイカツ!は都合14クール放送したということで、14本という数字もちょうどいいかなと思っています。もっと特定のキャラのエピソードばかり選んでしまうかなとも思ったんですが、存外バランスよく散らばりましたね。61話と108話については過去にレビューを書いているので、そちらもぜひ読んでいただければと思います。

 

 

 

ラブライブ!サンシャイン!!4話と「お伽草紙」

ラブライブ!サンシャイン!!の4話、「ふたりのキモチ」のレビューです。

4話はルビィと花丸が互いに思いあうゆえのすれ違いを越えて心を通わせる瞬間を描いた美しいエピソードでした。そのなかで、とある実在の小説が引用されていることに、私は強い興味をおぼえました。

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その小説とは、太宰治の「お伽草紙」です。

太宰治 お伽草紙青空文庫

もともと国木田花丸は沼津ゆかりの作家である芹沢光治良を愛読しているという設定があり、彼女が日本近代文学にあかるいのは広く知られるところなのですが、ここで名指しで引かれるのが太宰のお伽草紙なのは、なぜなのでしょうか。

この記事では、お伽草紙という物語がこの4話単体のエピソードと、さらにはラブライブ!サンシャイン!!全体とどのような関わりを持っているのか、どう結びついているのかについて考察してみました。

 

お伽草紙とは――「翻案」の物語

お伽草紙太宰治のキャリアでいえば中期にあたる時期に発表された作品です。浦島太郎などの古いおとぎ話に材を取り、ユーモアや皮肉を交えながら翻案した短編をあつめたものです。執筆時期は1945年3月から7月にかけてで、太宰は戦火に追われながらこの物語を書きました。防空壕での親子のやり取りからなる導入部は時勢を反映するものでしょう。
この小説の主となる部分はおとぎ話の翻案である短編群なのですが、私が注目したいのは、それらの短編に先立つように、導入としておとぎ話の語り手(=太宰)と娘のやり取りが描かれているところです。

ここでは語り手が防空壕で娘におとぎ話の絵本を読んで聞かせているときに、同時にそのおとぎ話を基にした「別個の物語」を胸中に育ててゆくさまが描写されます。この「別個の物語」こそが後に連なる短編たち、ということになっているわけですね。

 この父は服装もまづしく、容貌も愚なるに似てゐるが、しかし、元来ただものでないのである。物語を創作するといふまことに奇異なる術を体得してゐる男なのだ。

 ムカシ ムカシノオ話ヨ

 などと、間の抜けたやうな妙な声で絵本を読んでやりながらも、その胸中には、またおのづから別個の物語が醞醸せられてゐるのである。

お伽草紙 冒頭部より引用、強調は引用者による)

  このお爺さんは、四国の阿波、剣山のふもとに住んでゐたのである。(といふやうな気がするだけの事で、別に典拠があるわけではない。もともと、この瘤取りの話は、宇治拾遺物語から発してゐるものらしいが、防空壕の中で、あれこれ原典を詮議する事は不可能である。(...)私は、いま、壕の中にしやがんでゐるのである。さうして、私の膝の上には、一冊の絵本がひろげられてゐるだけなのである。私はいまは、物語の考証はあきらめて、ただ自分ひとりの空想を繰りひろげるにとどめなければならぬだらう。いや、かへつてそのはうが、活き活きして面白いお話が出来上るかも知れぬ。などと、負け惜しみに似たやうな自問自答をして、さて、その父なる奇妙の人物は、

  ムカシ ムカシノオ話ヨ

 と壕の片隅に於いて、絵本を読みながら、その絵本の物語と全く別個の新しい物語を胸中に描き出す。)

お伽草紙 瘤取りより引用、強調は引用者による)

ここで「絵本を読みながら、その絵本の物語と全く別個の新しい物語を胸中に描き出す」という語り手/太宰の心理が繰り返し書かれていることは注目に値します。なぜなら、「ある物語を読んだことによって新しい物語が生成される」というプロセスは、そのままラブライブ!サンシャイン!!という物語の成り立ちでもあるためです。

ラブライブ!サンシャイン!!は、秋葉原で千歌がμ'sと出会い、μ'sを追いかけることから始まりました。μ'sの物語に触れた千歌の胸中に浮かび上がってきた「全く別個の新しい物語」こそが、ラブライブ!サンシャイン!!だといえます。

2年生3人がファーストライブを開催するところなどは、μ'sの歩んだ道程をそっくりそのままなぞっているようでもありましたが、しかしAqoursのファーストライブはμ'sと違い、会場を満員にする大成功をおさめました。この違いから、サンシャインの「全く別個の新しい」物語としての歩みを読み取ることができます。

μ'sの物語(=アニメ版ラブライブ!)という、みなによく知られた物語を下敷きにしながら真新しい物語を紡いでいる、という点で、サンシャインとお伽草紙は共通の形式をもっているわけです。つまり、ここでお伽草子が引用されている意図としては、サンシャインという物語が翻案によって成り立つことを指摘するもの、という側面があるのではないでしょうか。

 

さて、このサンシャイン4話においては、雑誌に載っている花嫁衣装を着た凛の写真で、より細かく翻案の元ネタを示しています。これは、ラブライブ!2期5話、「新しいわたし」で星空凛が着た衣装であり、サンシャイン4話が「新しいわたし」をベースにしている翻案の物語であることがうかがえます。

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どのような翻案がなされているかを探るために、まず「新しいわたし」がどのような物語だったかを振り返ってみましょう。

「新しいわたし」は、自分は可愛くなんかない、アイドルに向いてないと思い込む凛に対して、花陽がセンターとして着るはずだった花嫁衣装のドレスを凛に着るよう働きかけ、凛を勇気づけるエピソードでした。お話のなかではラブライブ!1期4話「まきりんぱな」の回想が挿入されており、いま花陽が凛の背中を押そうとしているのは、かつて花陽がμ'sへの加入を諦めそうになったとき、凛が背中を押してくれたことに対して報いる行動であることが示されています。

この凛と花陽の関係性が、サンシャイン4話「ふたりのキモチ」においては、花丸とルビィの関係に置き換わっているわけです。社へつづく石段で花丸はルビィがスクールアイドルになるようルビィの背を押して、それに報いるようにルビィは図書室へと駆け込んで、花丸の背を押し返します。花丸が凛の写真に感動し、ルビィが好きなμ'sメンバーとして花陽の名前を挙げているところからも、両者の対応関係を見出すことができますね。

ここまで示した重なりによって、「ふたりのキモチ」が「新しいわたし」の翻案であることが説明できました。

 

ここで、この翻案という形式を活かしたシーンを挙げておきます。そこでキーになっているのは「絵本」です。

お伽草紙において、既存のおとぎ話と太宰の紡ぐ新しいおとぎ話の間には絵本というものが触媒のように存在していました。太宰がおとぎ話の絵本を読むことによって胸中に新しいおとぎ話が生成される、という過程がお伽草紙では書かれていましたが、サンシャイン4話においては、その「絵本」の役割を「アイドル雑誌」が果たしているように見えるのです。

4話において、物語を推進させる「語り手」の役割は花丸であり、その花丸が回想の中学時代の図書室にて読んでいた本こそが他ならぬお伽草紙でありましたが、その時に花丸のすぐ後ろでルビィの読んでいた本とはアイドル雑誌でした。

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お伽草紙冒頭において語り手である父が娘をなだめるために読むのが絵本でありましたから、両者を対応させてみれば、花丸の居場所であった図書室が逃げ場である防空壕であり、娘をなだめる父が花丸であり、絵本になだめられる娘がアイドル雑誌を嬉々として読むルビィ、という見立てが成立します。ルビィにとって図書室が防空壕であるというのは、姉である黒澤ダイヤからアイドル雑誌を「それ、見たくない」と言われたあとなのだとすれば頷ける話です。ルビィが安心してアイドル雑誌を読んでいられる場所は、家ではなく図書室だったのかもしれません。

 

そして、アイドル雑誌は沼津の本屋にて再登場します。ここで雑誌を読むとき、かつてお伽草紙を読みながら「新しい物語」を空想していたときのように、花丸がそっと目を閉じる描写が描かれています。

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「そこで読む本の中で、いつも空想をふくらませていた」

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「μ'sか。オラには無理ずら」と諦めの言葉を漏らしていた花丸が、雑誌の凛の写真を見た後には、ルビィへとスクールアイドル部への体験入部の意向を伝えることを決意したような表情を見せていました。無理ずらから体験入部までには心理的な飛躍が認められますが、この間を埋めたものとは何だったのでしょうか。

それは、アイドル雑誌の写真を見て目を閉じてから開くまでの間に、花丸がまぶたの裏に見た、胸の内に広がったひとつの空想であったのだと思われます。アイドルとしてきらきら輝く自分の姿を、花丸は花嫁姿の凛に自分を重ねる形で想像したのではないでしょうか。

だとすれば、凛の物語から生じた花丸の胸中の物語、という形で、ここでもある種の「別個の物語」の生成、ひとつの翻案がなされているといえます。絵本を読んで太宰の胸中におとぎ話が育ったように、花丸もまたアイドル雑誌を通じて、自分がアイドルになるという魅力的な物語を、胸中に描くことができたのではないでしょうか。

 

・太宰と「沼津」

ここからは、翻案以外の要素について検討していきます。まずは「沼津」について。サンシャインの舞台である沼津ですが、お伽草紙の作中には沼津について言及している箇所があります。

「浦島さん」の冒頭で語り手は、浦島太郎の舞台である丹後の海に、浦島太郎をも載せられる、たいまいのように手に鰭を持つ大型の亀が居るだろうかと自問自答します。そこで語り手は沼津で大きな赤海亀を見たという自身の体験を引き合いに出して、それならば丹後にも居てもおかしくないはずと結論づけて、おとぎ話の亀を赤海亀と設定します。

そこで、私は考へた。たいまいの他に、掌の鰭状を為してゐる鹹水産の亀は、無いものか。赤海亀、とかいふものが無かつたか。十年ほど前、(私も、としをとつたものだ)沼津の海浜の宿で一夏を送つた事があつたけれども、あの時、あの浜に、甲羅の直径五尺ちかい海亀があがつたといつて、漁師たちが騒いで、私もたしかにこの眼で見た。赤海亀、といふ名前だつたと記憶する。あれだ。あれにしよう。沼津の浜にあがつたのならば、まあ、ぐるりと日本海のはうにまはつて、丹後の浜においでになつてもらつても、そんなに生物学界の大騒ぎにはなるまいだらうと思はれる。それでも潮流がどうのかうのとか言つて騒ぐのだつたら、もう、私は知らぬ。その、おいでになるわけのない場所に出現したのが、不思議さ、ただの海亀ではあるまい、と言つて澄ます事にしよう。科学精神とかいふものも、あんまり、あてになるものぢやないんだ。定理、公理も仮説ぢやないか。威張つちやいけねえ。

お伽草紙・浦島さんより引用)

沼津は太宰が処女作である「思ひ出」を書き上げた土地であり、また代表作のひとつである「斜陽」のはじめ二章までを執筆した場所でもあります。とくに太宰が「斜陽」を書いたのは沼津の安田屋旅館においてであり、この安田屋旅館とは千歌の実家である「十千万旅館」のモデルです。太宰とサンシャインはその土地を介して深く結びついているといえるわけですね。

お伽草紙で書かれている「沼津の海浜の宿で一夏を送つた」とは、前述の「思ひ出」を書いた逗留のことを指すものと思われます。安田屋旅館には「思い出」という名のつけられた風呂があるそうですが、その沼津逗留にあやかったネーミングなのでしょうね。

ちなみに太宰の他の作品だと「富嶽百景」にも沼津への言及があります。こちらでは沼津から見た富士山の眺望について書かれているのですが、そういえば4話には渡辺曜が「富士山くっきり見えてる」と屋上で感嘆するシーンがありましたね。

 

・「引返す」ことは可能か?

さて続いて「浦島さん」からの話なのですが、「浦島さん」において、亀が浦島太郎に対して『引返す』という語について説教をぶつ箇所があります。

 性温厚の浦島も、そんなにまでひどく罵倒されては、このまま引下るわけにも行かなくなつた。
「それぢやまあ仕方が無い。」と苦笑しながら、「仰せに随つて、お前の甲羅に腰かけてみるか。」
「言ふ事すべて気にいらん。」と亀は本気にふくれて、「腰かけてみるか、とは何事です。腰かけてみるのも、腰かけるのも、結果に於いては同じぢやないか。疑ひながら、ためしに右へ曲るのも、信じて断乎として右へ曲るのも、その運命は同じ事です。どつちにしたつて引返すことは出来ないんだ。試みたとたんに、あなたの運命がちやんときめられてしまふのだ。人生には試みなんて、存在しないんだ。やつてみるのは、やつたのと同じだ。実にあなたたちは、往生際が悪い。引返す事が出来るものだと思つてゐる。」

お伽草紙・浦島さんより引用、強調は原文ママ

浦島太郎の云った「腰掛けてみる」という言葉の尻をとらえて、引き返すことの不可能性を亀が厳しく説くものなのですが、これは花丸が体験入部という「~してみる」理屈をつかった上で、結局入部しようとしなかった(=引き返した)ことに結びつくものとして読めます。花丸は体験入部でアイドルになってみることを選び、そして社へと続く石段を途中で引き返します。社への石段を登り切ることは、ルビィが登り切った時のメンバーのリアクションや、元スクールアイドルと思しき果南がゆうゆうと石段を登っていることなどを加味すれば、アイドルとなることのひとつのイニシエーションであると捉えられるわけですが、花丸がそれを途中で引き返すのは、彼女がアイドルとならないことを強く印象づけます。しかし最終的に花丸はアイドルとなるわけであり、結果的に亀の「どつちにしたつて引返すことは出来ないんだ」という理屈が通っているかたちになっているわけです。このお伽草紙との重なりは実に面白い調和だと思います。

さて、浦島太郎といえば竜宮城、そして乙姫ですが、Aqoursのシングル曲、「恋になりたいAQUARIUM」 は竜宮城の乙姫のイメージをジャケットや歌詞から感じます。

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「サカナたちのパーティー」は竜宮城での「タイやヒラメの舞い踊り」かという感じですが、あわあわ、と泡と恋が取りざたされる2番の歌詞は人魚姫を想起させるものでもあります。ジャケットの花丸なんかは人魚っぽいポーズを取っているようにも見えますし、陸から海へ行く浦島太郎と海から陸へ行く人魚姫の両方をモチーフにしていたりするところに何かしらの意味があるのかもしれません。

 

・「日本一」の物語

少し話が逸れましたが、今一度お伽草紙に話をもどします。次は「日本一」についてです。
ラブライブ!2期において、μ'sはラブライブ!大会で優勝し、日本一のスクールアイドルとなったわけですが、この「お伽草紙」には、太宰が日本一である「桃太郎」のような存在については書けないと語る箇所があります。

(…)しかし、私は、カチカチ山の次に、いよいよこの、「私の桃太郎」に取りかからうとして、突然、ひどく物憂い気持に襲はれたのである。せめて、桃太郎の物語 一つだけは、このままの単純な形で残して置きたい。これは、もう物語ではない。昔から日本人全部に歌ひ継がれて来た日本の詩である。物語の筋にどんな矛盾があつたつて、かまはぬ。この詩の平明闊達の気分を、いまさら、いぢくり廻すのは、日本に対してすまぬ。いやしくも桃太郎は、日本一といふ旗を持つてゐる男である。日本一はおろか日本二も三も経験せぬ作者が、そんな日本一の快男子を描写できる筈が無い。私は桃太郎のあの「日本一」の旗を思ひ浮べるに及んで、潔く「私の桃太郎物語」の計画を放棄したのである。
 さうして、すぐつぎに舌切雀の物語を書き、それだけで一応、この「お伽草紙」を結びたいと思ひ直したわけである。この舌切雀にせよ、また前の瘤取り、浦島さん、カチカチ山、いづれも「日本一」の登場は無いので、私の責任も軽く、自由に書く事を得たのであるが、どうも、日本一と言ふ事になると、かりそめにもこの貴い国で第一と言ふ事になると、いくらお伽噺だからと言つても、出鱈目な書き方は許されまい。外国の人が見て、なんだ、これが日本一か、などと言つたら、その口惜しさはどんなだらう。だから、私はここにくどいくらゐに念を押して置きたいのだ。瘤取りの二老人も浦島さんも、またカチカチ山の狸さんも、 決して日本一ではないんだぞ、桃太郎だけが日本一なんだぞ、さうしておれはその桃太郎を書かなかつたんだぞ、だから、この「お伽草紙」には、日本一なんか、もしお前の眼前に現はれたら、お前の両眼はまぶしさのためにつぶれるかも知れない。いいか、わかつたか。この私の「お伽草紙」に出て来る者は、日本一でも二でも三でも無いし、また、所謂「代表的人物」でも無い。これはただ、太宰といふ作家がその愚かな経験と貧弱な空想を以て創造した極めて凡庸の人物たちばかりである。

お伽草紙・舌切雀より引用、強調は引用者による)

お伽草紙に現れる人物は「極めて凡庸の人物」であり、決して日本一ではないということを太宰は荒っぽく語ってみせるのですが、それではさて、このお伽草紙を引用し、構造によっても深く重ねられたサンシャインにおいて、Aqoursラブライブ大会を優勝することができるのでしょうか?お伽草紙同様に、極めて凡庸な普通星人たちの物語こそがサンシャインであるならば、Aqoursが日本一になることはない……のかもしれません。

 

・よしまるなんだよな…
最後はただのトリビアですが、太宰治は本名を津島修治といい、善子と同じ津島姓です。つまり太宰を読む花丸というのは即ちよしまるなのですよね。よしまる、一番すきなカップリングです。

以上がお伽草紙から読むサンシャイン4話でした。ここからは4話の演出でこれは、と思った箇所などの列挙です。

  • 中学の図書室でお伽草紙を読むシーンと、沼津の本屋でアイドル雑誌を読むシーンは前述の通り、本を介した空想という点で重なりあうシーンではあるのですが、その他にも花丸が読み終えたあと、本を抱えた少女へと振り返るというところも共通しています。図書室ではアイドル雑誌を読むルビィへ、本屋では天使大辞典を抱える善子へと振り向きます。よしまるなんだよな……。
  • 千歌の「絶対悪いようにはしませんよ~」はサンシャイン1話でも使われていた言い回しですが、これはラブライブ!1期4話で穂乃果が花陽に対して使っていた誘い文句でもありました。これも凛の写真同様、1期4話→2期5話→サンシャイン4話の流れを押さえた参照なのでしょう。
  • 2期5話は最後の台詞が凛の「さあ、今日も練習、いっくにゃー!」だったのに対して、サンシャイン4話の最後の台詞は「さあ、ランニング行くずらー!」であるのも対比が効いたにくい演出です。

サンシャイン、キャラの可愛さと繊細な演出と過去への参照が醸し出す奥行きの深さが合わさり最高ですが、この4話はとくにその表現において傑出しているエピソードだと思います。これからもっと凄いエピソードが来ることに期待しています。

劇場版アイカツスターズ!を観た

「劇場版アイカツスターズ!」&「アイカツ!ねらわれた魔法のアイカツ!カード」の二本立て上映を観てきました。

以下映画の内容にふれるネタバレがあります。また、映画への否定的な記述が含まれています。そういったものを読みたくない人は読まないことを推奨します。

 

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アイカツ!53話のいちごの火の輪くぐりのニュース(英字)

アイカツ53話、「ラララ☆★ライバル」に出てくる英語の記事3つのうち、サーカスでの火の輪くぐりのものについてテキストに書き起こしてみました。

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正確さは保証できません。あくまで参考程度にしてください。
一箇所潰れて読み取れなかった部分を*とおいています。

最後の一行は下が見切れているせいで語も不正確な可能性が高い上にピリオドも適当につけてるのでとくにご注意ください。

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Ichigo passes
through the ring of
the fire of circus!!

The new "star" of
expectation to "the greatest show
in the ground" appeared.

A November certain day..
The Richmond public performance of ring ring Brothers and Barnum
and Bailey circus [following ring ring circus] opened the curtain bril-
-liantly. About 15,000 spectators thronged the RED public performa-
-nce performed in the Richmond Colosseum on that day. Various sho-
-w unfolded by the specialty of the ring ring circus which is proud of
100 years of history, and animals.
The smoke covered the stage top suddenly just before jumping thro-
-ugh flaming hoop by the climax and a big cat.
The spectators who lighting also falls and begin to be noisy. Then, the
announcement of babble resounded through in the hall suddenly.
「Ladies and gentlemen. It's a Amazing "AIKATSU" show!」 a tiger
with cute the smoke having disappeared and having been compared
with the spotlight on the stage -- she was the cute Japanese girl who
were not __ but the stuffed-animal suit of the tiger.
「Ichigo __ !?」 One of spectators shouted.
She is the finalist of an idol excavation program to whom she was
performed in Octorber, this year, Ichigo Hoshimiya. She who stared
Hart, the judge, by the sensational appearance by the parachute
jump from a Cessna plane by the initial screeming of audition beca-
-me a celebrity of the living room instantly. (Incidentally the parac-
-hute at this time is inherited from the super idol of our country un-
-der activity, and maple in Japan now.)
Since then, her who attracted attention of the world with the eye cu-
-tlet which goes the stunt top of anticipation. It is the appearance of
when [which regar               ded as -- what kind of performance you
would next show ]. The ring of the fire for big cats in the point which
Ichigo who flew and was waving the hand to the spectator with the
smiling face of * in the "Noriben call" not coating showed." -- future
-- today's special event and me -- it is jumping through flaming hoop
by Ichigo Hosyimiya -- the rise of the flow lit by." assistant in the

-

要点

  • 11月某日、「ring ring Brothers and Barnum and Bailey circus」というサーカス団がリッチモンド・コロシアムにて公演(Ringling Bros. and Barnum & Bailey Circusのもじり)。ここでいちごは虎の着ぐるみを着て火の輪くぐりをした。
  • いちごは10月に行われたアイドル発掘番組のファイナリストになっている。その番組への登場がセスナ機からパラシュートでの降下であったこともあり、瞬く間にお茶の間の人気者になった。また、そのパラシュートはmaple(=かえで)から継承されたものでもある。

50話でかえでに託されたパラシュートはちゃんと活かされたらしい。それでかえではやっぱり向こうでも人気があるのだなあ…(the super idol of our countryとは)

ここさけを観た

アニメ映画、『心が叫びたがってるんだ。』を観た。

めちゃくちゃ良かったが、どう良かったとはなかなか言い表しづらいタイプの作品だった。でもとりあえず何かは言っておきたいということで、作品の全体から、序盤中盤終盤からシーンを一つずつ選んであれこれ言っておくことによって、うさを多少晴らしておこうと思う。後で観返す時用のメモといってもいい。当然ネタバレがある。

 

序盤

冒頭の、順が母に玉子焼きを口に押し込められながらおしゃべりな子であることを咎められるシーン。

ここで順には「口にすること」に対する呪いがかかり、喋ることが禁止され、玉子の空想に囚われるようになった。順の物語においておしゃべりを封印するのが玉子であるのは、この体験が鍵になっている。

 

中盤

順がクラスで披露した即興の歌。今まで話すことのなかった順が口を開く瞬間が、また二人の諍いを歌で止めようとする展開が非常に劇的・ドラマチックであり、そこに歌が合わさることにより、あのタイミングにおいてはドラマと歌の合体、つまり『ミュージカル』が成立していた。だから奇跡も起こる(喧嘩も止まるしミュージカル企画も成立する)。

また、このときの順の歌を、後にDTM研究会のひとりがボーカロイドに歌わせるシーンについて。

これは、アナログに「口で」歌うことと、デジタルに「打ち込む」ことによって歌わせることの対比を描いているのであって、当然これは口で話すことと、メールを打ち込んで読ませることとの対比と重なるものである。順の携帯がガラケーであることも、順のメールが「打ち込まれる」ものであることを強調する。

 

終盤

廃墟となったラブホテルの一室。順はステンドグラスが照らすベッドを背にして床に座っている。

作中、光と影の対比は繰り返し繰り返し、ちょっとしつこいほどに描かれる。光を浴びる人は自分の想いを率直に口にできる。影にいる人はそれができず、言いたいことを胸の内に押しとどめる。

それを踏まえた上でステンドグラスを解釈すると、これはまず電気の通っていない廃ホテルの内部を照らす光源であることに間違いはない。しかしステンドグラスというものは、太陽の白色光を色づいたガラスによってかげらせるものとしても捉えられる。

光でありながら同時に影でもある――ステンドグラスとは、光と影との両方のイメージを併せ持ったものではないだろうか。ステンドグラスに描かれた図像は「太陽」と「月」であった。それぞれが陽と陰の象徴であることは言うまでもない。

ここでの順と坂上とのやりとりは一度では追いきれなかったところがあるので、そう遠くない内にもう一度は観たい。

 

全体を通してみれば、事実を脚色して作った物語を母に語ることによって母を傷つけてしまった順が、再び事実を脚色して作った物語をミュージカルという形で語り直すことによって母との絆を再生させる、という母子のストーリーの部分に強い魅力を感じている。この軸でここさけが好きな人は多分、プリズムショーが原因で傷ついた家族がプリズムショーで再生していく物語であるところのプリティーリズム・オーロラドリームも多分好きだと思うので、プリティーリズムを観てください。

風沢そらと『郷愁のモロッコ』

アイカツ!61話の魅力に取りつかれて以来、風沢そらをより深く理解するために、モロッコに関する情報を集めたり、書籍を読みふけったりしていたのですが、その中に、これは!風沢そら!と思うような小説がありましたので、この記事で紹介したいと思います。

その小説とは、エスタ・フロイド著の『郷愁のモロッコ』です。

郷愁のモロッコ

郷愁のモロッコ

 

私がこの本を知ったのは、マラケシュを舞台とする『グッバイ・モロッコ』なる映画があるらしいということからでした。調べてみると原作は小説であり邦訳もあるとのことで、それが『郷愁のモロッコ』だったのですが、より詳しい情報を求め河出書房新社のサイトへ行ってみますと、そこにはこんな惹句が。

『1960年代中頃のロンドンから、自由を求めてマラケシュへ旅立つヒッピーの母親と二人の娘。魔法の地モロッコでの不思議な体験を5歳の娘の目を通して描く。映画「グッバイ・モロッコ」原作。』

自由。マラケシュ。旅。ヒッピー。母親と娘。魔法。これはどう考えてもアイカツ61話なのでは?と思い、さっそく最寄りの図書館で借りて折り返しの著者紹介に目を通してみますと、そこに書かれている情報に胸を撃ちぬかれました。

 

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Esther Freud

1963年ロンドン生れ。4歳の時ヒッピーだった母につれられて姉とともにモロッコを2年間放浪。その時の体験が本書の素材となっている。各地を転々としたのち16歳の時にロンドンにもどって俳優の訓練をうけ、 現在は俳優、脚本家としても活躍している。本書は作家としてのデビュー作。出版と同時にベストセラーとなり、異例の反響を呼んだ。1998年に映画化。ちなみに著者の曽祖父はジークムント・フロイト、父は画家のルシアン・フロイド、そして姉は有名なファッション・デザイナー。

(折り返し部分)

自由。マラケシュ。旅。ヒッピー。母親と娘。魔法。ファッション・デザイナー(New!)。

 

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マラケシュを訪れた少女が後にファッションデザイナーになる、というのは完全にアイカツ61話です。さらに言えばエスタ自身も俳優の訓練を受け、俳優としての仕事もしている、という点も、風沢そらがファッションデザイナーと舞台に立つアイドルとの両方の仕事をしていることとの重なりをみることができて、非常に面白いところです。

この「有名なファッション・デザイナー」である姉とはBella Freud(ベラ・フロイド)のことです。彼女のbiographyについては日本語でまとまっているところがなさそうだったので、WikipediaのBella Freudの項とベラのHPのBIOGRAPHYFashion Model DirectoryのBella-Freudの項の情報を以下にまとめてみました。

61年ロンドン生まれ。77年、ベラが16歳の時にヴィヴィアン・ウエストウッドから『Seditionaries』(現在の『World's End shop』)というショップに職を与えられて働き始めるが、ファッションの勉強を望んで店を去る。イタリアの『Accademia di Costume e di Moda』で3年間学びながら、同時に現地で仕立ての仕事と靴のデザインに取り組む。その後ヴィヴィアンの下に戻り、彼女のデザインスタジオで4年間アシスタントとして働き、技術を完成させる。90年に自身のブランドを立ち上げ、91年にはBritish Fashion AwardsのセレモニーでYoung Innovative Fashion Designer of the Yearとして選ばれるなど活躍し、今に至る。

彼女のブランドについては、ちょっと変わっている、俗っぽい要素の配置されたカラフルなニットで知られている。

そのニットは氏のHPで見られます。

http://www.bellafreud.com/shop/women/

この姉とともに母に連れられ、妹のエスタがモロッコを放浪した2年間の経験をもとに書いた自伝的小説が『郷愁のモロッコ』です。

さて、小説の中身へと話を移しましょう。正直なところ、小説本文からはこの著者紹介を越えるだけのアイカツインパクトは受けなかったというのが正直なところですが、小説は小説で面白かったので、しっかりレビューしていきたいと思います。

 

 

■あらすじ

物語の語り手は、幼い少女であるルーシー。

時代は1960年代。若い母親・ジュリアと二人の娘(姉のビーと妹のルーシー)はロンドンを発ち、モロッコマラケシュへと向かう。ジュリアはイギリスの退屈なしきたりに愛想を尽かして旅に出たのだった。三人はマラケシュの安ホテルに宿をとり、手縫いの人形を売ったり、ロンドンに住む夫からのささやかな送金をあてにしたりして生計を立てる。

そんなある日、ジュリアはマラケシュの広場で魔術師の弟子であるビラルと出会う。ジュリアとビラルは次第に親密になり、二人の娘も父代わりに彼と親しむようになる。

ジュリアは旅の目的の一つであったスーフィズムイスラム神秘主義)を探求したがるが、娘たちは反発する。イギリスでの生活を取り戻したい姉のビーは、学校へ行きたいと訴える。しかしジュリアは、ビーをマラケシュで知り合ったばかりのイギリス人家族のもとへ預け、ルーシーだけをつれて隣国アルジェリアにいる高僧のもとへ旅立つ。

アルジェリアにて修行に入ったジュリアだったが、次第にマラケシュに残していったビーのことが気になり始める。マラケシュへと戻ると、ビーを預かったイギリス人家族はどこかへ消えている。ほうぼう探しまわり、施設へと預けられていたビーを見つけ出す。その施設の長は、ジュリアの苦手な、ジュリアの母そっくりのイギリス式の堅物な女性であった。ジュリアはこの女性と大喧嘩をしたのち、ビーを引き取る。

ビラルとも再会し、再びマラケシュでの生活が始まるが、生活費も底を尽き、ビーの体調もすぐれないことから、ジュリアはロンドンへ戻ることを決断する。乞食をしてお金を集め、マラケシュを去る列車に乗る。共に過ごしてきたビラルはついに駅に現れない。列車に揺られながらルーシーが思うことは、母が途中の駅でふらりと降りてしまわないかということだった。

自由を求めて旅立ったが、ついにはその自由への希求を諦め母国イギリスへと帰っていく母の挫折と、それに振り回される娘たちの困惑が描かれる物語でした。母の放浪の根源的な動機が堅物の祖母への反発に由来し、またその放浪の終焉が娘の病気によって齎されるという、祖母-母-娘の逃れ難い結びつきが物語のひとつの主軸であるように感じました。娘それぞれについても、母とくっついて旅した妹・ルーシーは無事であったが、母と離れた姉・ビーは病気に罹ってしまうという対比があり、ここからは、母と結びついて生きていかざるを得ない娘に関する観念が表されているように思えます。

このようにまとめてみると暗い話のように思えますが、実際の読後感は軽やかなものでした。それは、語り手の少女・ルーシーの認識がとても楽観に満ちたものであることが、大いに影響しています。

母の気分次第で明日がどうなるかわからない異国での暮らしは、娘にとっては不安で厳しいもののように思えるのですが、このルーシーは日々の生活に楽しみを見つけ、姉と可笑しな囃しことばを叫びながら、軽く過ごしていきます。幼い少女ゆえの楽観が物語に不思議なテイストを与えていて、シビアなはずの話であっても、するりと読めるところがありました。

この小説は98年にイギリスで映画化され、主役のヒッピーの母親役を『タイタニック』でおなじみのケイト・ウィンスレットが演じました。邦題は『グッバイ・モロッコ』。日本では99年に公開されました。

映画につきましては、こちらのブログ・『Audio-visual trivia』さまの『グッバイ・モロッコ』のレビュー記事(http://www.audio-visual-trivia.com/2006/07/hideous_kinky.html) が大変詳しく参考になります。

60年代末から70年代初頭にかけてのマラケシュはヒッピーの聖地のひとつであり、多くのヒッピーが集う都市だったそうなのですが、その時代の風俗をうまくとらえた映画となっているようです。

アイカツの方へ話を移しますが、この『郷愁のモロッコ』で描かれている、マラケシュという土地とヒッピーカルチャーとの深い結びつきこそが、風沢そらが「ボヘミアン」であるミミと出会ったのがマラケシュであった理由のひとつであると考えられます。

ヒッピーとボヘミアンは指し示す意味にずれがありますが、そらの言う「自由な生活をする人」という意味に限れば、ボヘミアンはヒッピーを包含する概念として捉えることができます。また『kira・pata・shining』のステージでそらが身に着けていた、自身でデザインしたアクセサリーが「オリエンタルリブラヒッピーバンド」であったことからも、アイカツにおいてボヘミアンとヒッピーの語の間にある程度の互換性があたえられているとみることが可能です。

『郷愁のモロッコ』は、マラケシュとヒッピーカルチャーの強い結びつきを、実際に現地で体験した人が書いた作品であり、風沢そらとマラケシュとヒッピーについて考えを深めたい人にはぜひおすすめしたい作品です。

いちそら学序論Ⅱ アイカツ!67話 蘭とそらの迷いとコンパス

このテキストは以前にアップした「いちそら学序論Ⅰ」の続きです。

前回同様、アイカツのエピソードをいちごとそらの関係性を中心に読みこんでいくものです。

前回取り上げた62話、クリスマス回は明確にそらといちごを中心とした物語でありましたが、今回取り上げる67話「フォーチュンコンパス☆」は、迷える蘭がエピソードの中心人物です。この蘭の迷いに対して、そらといちごはそれぞれどのように関与したのか、というのがこの論の論点のひとつです。

そしてこの論のもうひとつの論点は、蘭が迷子になった山中において、そらもまた迷子であった、というところにあります。蘭の迷子は、恵方巻きの具をどうするべきかについての迷いと一体のものでした。であるならば、そらの迷子もまた単純な迷子ではなく、何かしらの迷いや葛藤の現れだと解釈することが出来ます。であれば、この時のそらの迷いとは、いったい何に対しての、どのような迷いなのでしょうか?

 

まず一つめの論点について論じるために、62話における蘭のストーリーを追っていきましょう。

 

■あらすじ-蘭を中心とした

蘭は「料理の材料は必ず体にいいものを」という祖母の心得を守りながら料理を作っており、『Yeah!Hoo!!巻き』のオーディションへ向けての特訓でも、体によい具ばかりを用いた恵方巻きを作っていました。

しかし、『スイーツアイドル大集合!』という手作りお菓子を振る舞うイベントにおいて、自身の作った体によい具を用いたクッキーが客を満足させられていないことを認識し、再び恵方巻きの特訓に挑みます。そこでは彩りを重視した普通の具の恵方巻きを作った蘭でしたが、蘭の中の迷いは消えず、テレビ番組のロケでいちごとあおいとともに訪ねた山の中で、蘭は迷子になってしまいます。そこで、蘭は同様に迷子となったそらと出会います。

お腹を空かせた蘭に、そらは山の幸のみを具とする恵方巻きを作り食べさせようとします。蘭は斬新な具に当惑しますが、そらの言葉に説得され、その恵方巻きを口にし、おいしいと感想を語ります。そのうちに、二人は恵方の方角へと蘭を探して走ってきたいちごに見つけられます。

オーディション当日、恵方巻き作りに不安を抱く蘭に対して、いちごは「本当の蘭が一番おいしい!」と応援の言葉をかけます。蘭は祖母が「味も大事。見た目も大事。でも一番大切なのは、どんな想いを込めるか、どんな気持ちで作るか。それが一番の調味料」と語っていたことを思い出し、自分の祖母への想いを込め、体によい恵方巻きを作ります。結局、この恵方巻きは審査員を感動させ、蘭と、同じくオーディションに出ていたそらが合格し、ふたりは『Yeah!Hoo!!巻き』のキャンペーンガールとなりました。

 

■蘭の迷いとコンパス

67話では蘭の迷いとその解消が中心に描かれているわけですが、ここでタイトルを見てみますと、67話のタイトルは「フォーチュンコンパス☆」です。67話のテーマである『迷い』とタイトルの『コンパス』という取り合わせから見えてくるのは、迷える人がコンパスを頼りに歩むことによって迷いから脱する、というイメージです。そして67話においてその役割を果たすものとは、恵方巻きです。

コンパスとは南北を向く磁針から方角を知るものですが、コンパスの持つこの『特定の方角を向く』という性質が、恵方巻きの『恵方を向いて食べるもの』という性質と重ねられているわけです。

蘭に「自分を貫くしかない」ことを伝えたそらの恵方巻きや、恵方巻きの風習に感化されて今年の恵方へ向けて走ったいちごによって、蘭は迷いから解放されたのであり、迷いを恵方巻きというコンパスを助けに乗り越えるのが、67話における蘭の物語であるといえます。

 

 

■そらといちごの共通点

つまりこの67話においては、そらといちごが蘭を助ける人としてセットで描かれているわけなのですが、くわえて指摘しておきたいのが、そらが山中で蘭に語った「恵方巻きは自由な巻き物。正解なんてない。だからこそ、自分が本当に信じるコーデを貫くしかない」という台詞が、いちごが蘭の恵方巻きの特訓中に語ったことと同じ内容である点です。いちごの台詞は以下の通り。

「やり方は人それぞれで絶対なんてない。だから料理は面白いんだよ」

「ねえ!恵方巻きの中身選びって、カードをコーデするのに似てるね」

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そらといちごの間に見られる、料理をコーディネートにたとえるこのシンクロは非常に興味深いポイントです。そらはいちごのたとえ話を知る由がないわけですから、このシンクロは、いちごとそらの間に深いつながりが存在することの証左と捉えることができます。

ふたりのシンクロといえば、62話「アイドルはサンタクロース!」にも、等身大いちご人形の不足というトラブルを解決するそらのアイデアを、いちごはそのそらの言葉を聞くことなしに理解する、という表現がありました。それが可能だった理由について、前回の論では、そらがいちごのアイカツを深く理解し、またいちごもそらの深い理解を認識していたからだと論じました。

そして67話のこの『料理をコーディネートにたとえる』というシンクロは、62話の『キラメキドレスケーキ』に由縁があると考えられます。『キラメキドレスケーキ』とはケーキをドレスに見立てたものであって、そのケーキを共に作り上げたそらといちごが、恵方巻きをコーデにたとえるという発想を共有しているのは必然ともいえることなのではないでしょうか。

そらがいちごを深く理解していることから生まれたドレスケーキ、そしてそれをふたりが作り上げたことから生じた『恵方巻きの具選び=コーデ』というシンクロ。ここから、そらが蘭を前に語った言葉の内に、いちごへの想いが交じっていたのではないか、と考えられます。それがそらの『迷い』とも関連しているはずだーーということについて、後半で論じていきます。

 

■蘭の恵方巻き-具について

と、その前に、67話のキーアイテムである恵方巻きについて細かく取り上げたいと思います。まずは蘭の恵方巻きの具の変遷を見ていきましょう。

蘭が一度目の特訓の際に選んだ恵方巻きの具は、わかめ、ひじき、じゃこ、めかぶの4種でした。どれも海の幸であり、山での迷子の際にそらが蘭に食べさせた「山の幸だけで作った」恵方巻きと対をなしています。

その後蘭がYeah! Hoo!! 巻きオーディションの際に作った恵方巻きの具は、わかめ、めかぶ、ひじき、ゴマ、ごぼう、大豆と、海の幸と山の幸の混合となっていました。ここに、蘭がそらの恵方巻きから受けた影響の大きさを見て取ることができます。蘭がそらの恵方巻きを指針としている、ということを示すものともいえるでしょう。

 

■蘭の恵方巻き-食べた人の反応

次に、蘭の恵方巻きを食べた人の感想やリアクションについて見ていきます。

一度目の特訓で作った恵方巻きは、食べたらいちをがっかりさせる出来でした。

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二度目の特訓での恵方巻きは、彩りを重視した無難な具選びで、いちごにおいしいと言わせるには至りましたが、オーディション直前にいちごが「迷うことなんてないよ。本当の蘭が一番おいしい!」ということから、いちごはこの恵方巻きは「本当の蘭」ではないと感じていたことがわかります。

そして、オーディションの時の恵方巻きは、最初のらいちが食べたものと同じコンセプト、同じ系統の具選びでありながらも、審査員たちを感動させることができました。

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体によい具材というコンセプトが変わっていないにもかかわらず、食べたらいちと審査員との間には大きなリアクションの差が生まれています。この理由は、回想で蘭の祖母が語る「味も大事。見た目も大事。でも一番大切なのは、どんな想いをこめるか。どんな気持ちで作るか。それが一番の調味料」という台詞によって説明されています。オーディション本番で作った恵方巻きには、蘭の祖母への想いがこめられており、それが調味料となり、食べた審査員を感動させるに至ったのでしょう。

蘭の料理が、体にいいものでつくるという祖母の心得をうわべだけなぞったものから、真に想いがこめられたものになったこと。この変化が、蘭の作った3本の恵方巻きへのリアクションの変化によって表現されているわけです。

 

■もう一人の迷子、そらの迷い

さて、ここからはそらの『迷い』について考えていきます。前述のとおり、蘭の迷子が心の迷いとリンクしていたのと同様に、山で迷子となるそらにも、何かしらの心の迷いがあったものと推測されますが、このそらの迷いとはどのようなものだったのでしょうか。

そらは山へ行くより前に、ドリームアカデミーにて恵方巻きを作っています。

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この恵方巻きに対し、セイラは「あたし、こんな恵方巻き見たことない」と言いますが、この恵方巻きを食べたきいには「おお~!おいしい!これならオーディション、オケオケオッケーかも」と大好評でした。

しかしそらは、きいに太鼓判を押されるほどの恵方巻きをすでに作り上げているにもかかわらず、恵方巻きのひらめきを求めて山へと向かい、そこで迷子となります。なぜ、そらはこのフルーツの恵方巻きがあるにもかかわらず、山へと向かったのでしょうか?その動機こそが、そらの『迷い』にほかならないと考えられます。

 

■そらの恵方巻き・蘭のクッキー・いちごとスイーツ

このフルーツの恵方巻きに注視してみましょう。恵方巻きにミスマッチな苺などの果物やクリームといったスイーツの具材が用いられているのが特徴的ですが、この特徴は、蘭が『スイーツアイドル大集合!』のイベントに向けて作ったクッキーと好対照をなしています。

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甘いはずのクッキーにスイーツらしからぬ具材(わかめ、ひじき、じゃこ)を入れた蘭のクッキーと、甘くないはずの恵方巻きにスイーツのような具材を入れたそらの恵方巻き。これらはどちらも料理のカテゴリと具材がミスマッチである、という点が共通しているのですが、それを食べた人のリアクションもまた対照的です。

恵方巻きを食べたきいは満足げなのに対し、クッキーを食べたいちごは不満足そうな顔を見せます。

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具材とカテゴリがミスマッチなふたつの料理に生じた反応の違いは、一体何を示しているのでしょうか?

まず一つは、『想い』の差が考えられます。一番の調味料である、「どんな想いをこめるか、どんな気持ちで作るか」というところで、そらと蘭とで差がついているということです。そらの恵方巻きにはしっかりと想いがこめられていたために、きいを軽く感動させることができたのに対し、蘭のクッキーには想いがこめられていなかった、という差が浮き彫りになっていると考えられます。

そしてもう一つは、蘭のクッキーが甘くなかったことに対する示唆です。そもそもいちごは甘いお菓子が好物であり、蘭もそれをよく知っているはずでした。たとえば50話で、あおいが注文したお祝いパフェを自分が食べる前にあおいと蘭に食べさせたときに、あおいも蘭も、このパフェの甘さがいちご好みであると語っています。

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そしてこの67話では、蘭は「たとえば今日のいちごは、昨日お腹いっぱいになるまで食べたパフェでできてるんだぞ」と語り、いちごの好物が甘いスイーツであることを改めて示しています。

いちごが蘭のクッキーを食べて疑問を抱くような表情を見せるのは、このクッキーがいちごの期待から外れた、甘くないお菓子であったことを示すものと思われます。

 

さて、いちごを満足させられなかった蘭のクッキーと対になっている風沢そらの恵方巻きは、クリームとフルーツの具材から察するに、おそらくは甘いものであると思われます。そして、食べたきいを感動させていたことから、蘭のクッキーとは違い、この恵方巻きにはきちんと「想い」がこめられていたと考えられます。

想いをこめ、甘く作られた恵方巻き。そしてその中央に位置する具材が『苺』であること。これらのことから類推するに、そらのこの恵方巻きにこめられた想いとは、いちごへの想いであったのではないでしょうか。

前回の記事で62話の合同クリスマスパーティー・巨大クリスマスケーキの企画は、そらからいちごへの強い想いから始まったものであることを指摘しました。この恵方巻きもまたいちごへの想いがこめられたものであるならば、フルーツの恵方巻きをうち捨てて山へ向かうというそらの『迷い』は、いちごへの想いを持ち続けることに対する迷いを意味するでしょう。

 

■そらの迷いの出発点、福女レース

いちごへの想いについての迷い。この迷いがそらに生じた理由とは何でしょうか?

これについては、64話「ラッキーアイドル☆」のこのシーンに尽きると思います。

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「新春 福女ラッキーアイドルレース」で優勝し、星座プレミアムドレスお仕立て券を受け取るいちごにへとスターライト、ドリアカ各校の生徒が拍手を送るなか、そらだけが後ろ手に立ちすくんでいます。レースでいちごに負けたアイドルたちさえもいちごを讃える拍手を送っているのに、レースに参加すらしていないそらが拍手を送っていないのはどこか奇妙です。ここから、このときのそらの心理状態が非常に穏やかでない、複雑な状態であったことが伺えます。

64話においてそらは、アイドルとしてではなく、デザイナーとして福女レースに関わることを選びました。

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そらは「これでも私なりのアイカツに燃えてるの」と語り、きいやセイラが走りこみの特訓を行うそばで、新作の星座プレミアムドレスのデザインを熱心に描いていました。そらはレースに優勝したアイドルにデザイナーとして選ばれることを熱望し、走る代わりにデザインで福女レースと真剣に向き合っていたわけです。

そこから考えれば、いちごが星座プレミアムドレスお仕立て券を受け取った時の、そらの拍手をしないという反応からは、自身がデザイナーとして選ばれなかったことへの強い落胆を読みだすことができます。

62話「アイドルはサンタクロース!」において、そらはいちごへの強い想いから、天羽あすかにあすかがデザインしたキラメキドレスケーキを自身の手で大きくデザインし直す許可をもらい、デザイナーとしていちごにドレスのようなケーキを着せる、という体験をしていました。そらはこの成功の体験から、いちごにデザイナーとして選ばれることへの期待をふくらませていたと考えられます。

しかしその期待は、お仕立て券を使うデザイナーとして、いちごが天羽あすかを選んだことによって破られます。いちごに選ばれなかったというショックから、そらはいちごに拍手することもできず、ただ立ち尽くすことしかできなかったのではないでしょうか。

 

■そらを導くフォーチュンコンパス

つまり、そらはいちごへの想いから苺を含むフルーツの恵方巻きを作るが、いちごから選ばれなかったことから、その想いを持ち続けるべきかを迷うーーというのが、そらの『迷い』であったということです。そしてそらは、新たなる恵方巻きのひらめきを求めて向かった山で迷いながら、同じく道に迷える蘭と出会います。

蘭の迷いとは、祖母への想いを捨てるべきかについての迷いであったわけですが、これはそらの迷いと重なるものでもあったわけです。

 

そらはお腹を鳴らす蘭に、山の幸だけで作った恵方巻きを渡します。この恵方巻きについて、蘭はそらに「ええっ、これオーディションに出そうと思ってる恵方巻き?」と尋ねますが、ここでそらは肯定も否定もせず、ただ「召し上がれ」と恵方巻きを蘭に差し出します。

この恵方巻きを受け取った蘭は、「こんなの今まで見たこと……」と戸惑いますが、その蘭の言葉を遮ってそらは「恵方巻きは自由な巻き物。正解なんてない。だからこそ、自分が本当に信じるコーデを貫くしかない」と語ります。

 

自分が信じるコーデを貫くしかない。これは蘭のみが迷っているのでならば、そらが蘭を諭す台詞として解釈されますが、ここではそらもまた迷える存在であることから、この台詞は自分自身に対しても言い聞かせるような台詞であるものと解釈できます。そもそも蘭がどのような迷いを抱いているのか、そらには知る由もないわけですから、蘭に対して諭すような話をし始めるというのは不自然です。

であればこの台詞は、迷えるそらが同じように迷える蘭と出会い、その蘭のために恵方巻きを作ることを通して、「自分が信じるコーデを貫く」ということについて改めて考え始めていることを示すものと考えられます。

そらの恵方巻きを一口食べた蘭は、「おいしい!」と感嘆の声をあげます。これは単に味がよいということではなく、この恵方巻きにもまたそらの『想い』がこめられている、ということを意味します。このそらの『想い』とは、いちごと同じ、「困っている人を放っておけない」という想いであったと考えられます。それは、山で空腹な人に食べ物を渡して助けるというそらのこの行動が、71話「キラめきはアクエリアス」でいちごが山中で困り果てるあおいにおにぎりを食べさせること重なることからもいえます。

62話で、ブランド立ち上げる動機についてそらは次のように語りました。

「自分が作った服で、誰かを元気に、ハッピーにできたらいいと思って、私のブランド、ボヘミアンスカイを作った」

前回の記事において、62話の時点では、この「誰か」が一見広い人を指しているようでいて、その実いちごやミミといったごく限られた人物のみを指すものであったことを指摘しました。そこから67話に至るまで、そらはそのデザインの力を、自身を除けば、クリスマスパーティ、福女レースと、いちごのためだけに用いてきました。しかし、山中で空腹の蘭に会うに至って初めて、そらは自身のデザイン(=コーデ)の力をいちご以外の人のために用いました。目の前で困っている人をハッピーにする、という、いちごと同じやりかた。それこそが、そらにとって貫くべき「自分が信じるコーデ」であったということなのでしょう。

そらは迷いの果てに、いちごのためのアイカツから離れ、しかしいちごと同じ思いを抱きながら、より広い「誰か」のためにアイカツしていく道を見つけました。

蘭は、恵方巻きの見た目にこだわるあまりに祖母への想いを捨てそうになっていましたが、見た目にこだわらないそらの恵方巻きによって、自分の迷いを断ち切るきっかけを得ました。

二人は恵方巻きによってそれぞれの道をみつけ、そして、恵方へと向けて走るいちごによって見つけられます。

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いちごと出会ったときのそらのこの笑顔を、ドリアカにて恵方巻きをきいが食べたときのそらの笑顔と比較してみましょう。

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感情が「おもてに出ない」タイプであるはずのそらが、ドリアカでは頬を染めています。これはこの時のそらにはいちごを想う大きな心のうねりがあり、一方、山でいちごと出会ったときには、もはやそらには頬を染めさせるだけの心の動きはなかったということが読み取れます。ここから、そらの傷心が癒えつつあること、いちごから静かに心が離れていくさまをみることができるでしょう。

 

■終わりに

そらがいちごへの想いを巨大ケーキとツリーという形に成就させた62話。

そらがいちごへと抱く想いが裏切られてしまう64話。

そらが抱いていたいちごへの想いを、異なる方向へと向け始めた67話。

62話から67話までのそらの物語が、そらからいちごへの想いを中心に読み解くことができる、ということをここまでのテキストで示してきました。ここまで示してきたそらの一連の心の動きを、私は「失恋」と呼びたいと思います。他にも様々な解釈はあり得るかとは思いますが、やはりそらのいちごへの想いは、「恋みたいな気持ち」だったのではないかなと私は考えています。

風沢そらにまつわるテキストとして、既に85話へのレビューを上げていましたが、今回67話を観返してみて、85話を67話と対応させながら読む必要性を感じてきたので、そう遠くないうちに85話レビューの改訂を行いたいと思います。

85話と67話の共通項として、蘭が一度は自分を否定しながら最後には取り戻すというプロットや、キーワードとして「心得」と「特訓」が出てくることが挙げられます。当然蘭とそらにまつわるストーリーであるのも共通項のひとつでしょう。

こういった対称が織り込まれていることに気づいて改めて、アイカツという物語の周到さ、深さに感じ入るところであります。

たとえ3月末でアイカツという物語にひとつのピリオドが打たれようとも、それはけして全ての終わりなどではなく、まだまだアイカツを深く読み込んでいくという楽しみは残されているわけでありまして、むしろ物語が完結することによって初めて、物語を詳細に読みこむという営みは本格的にスタートするのだと思います。アイカツの放送が終わっても、むしろここがスタートラインという思いで、アイカツという物語と向き合って行きたいと思っています。

このいちそら学序論が、皆様における、アイカツを読むという営みの一助になりましたら幸いです。