末吉日記

マンガとアニメのレビューとプリズムの煌めき

KING OF PRISMの輝き

劇場版アニメーション、「KING OF PRISM by pretty rhythm」(以下キンプリ)を公開初日に観てきました。

もの凄く良かったです。

その良さを書き留めるべくレビューを試みたのですが、お読みになる前に一点ご注意いただきことがあります。

私はプリティーリズムシリーズが好きで好きで、そのプリリズを継承したプリパラや、プリパラの劇場版作品も楽しんで観てきました。このレビューには、キンプリについてはもちろん、以上に挙げましたプリリズ、プリパラシリーズへの言及が多く含まれます。ですので、今回キンプリを観て初めてプリティーリズムに触れた!という方にはピンと来ないものになっている可能性が高いです。そのような方は、レビューを読まれるよりも先に、兎にも角にもまずプリティーリズムを観てください。キンプリから入った方はプリティーリズム・レインボーライブ→劇場版プリパラ み~んなあつまれプリズム☆ツアーズと観るのがお薦めですよ。

なんらかの動画配信サービスで観られると思いますので、キンプリに惹かれた方ならぜひぜひ観てください。

 

それではキンプリをレビューしていきます。以下ネタバレを含みます。

17/6/7編集。

19/5/6編集。(すでに配信終了した動画配信サービスを勧めていた点など修正)

 

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元旦にライフ・オブ・パイを観た

2016年の抱負は「たくさん文章を書く」に決めたのでたくさん文章を書いていくぞ!というわけで、このブログもたくさん更新していけたらいいなと思います。

そういうわけで、本年の書き初めとして、今回は元旦にテレビでやってる映画を観たぞ、観たんだぞ~~という話をざっくりと書いていきたいと思います。

観たのは「ライフ・オブ・パイ」です。

私はこれタイトルとなにやら虎が出てくるらしいってこととポスターが「百剣-HYAKKEN-」のビジュアルとそっくりであることくらいしか知らなかったのですが。

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観てみるとこれ、「『語ること』についての物語」で、私の好きなタイプのやつでした。

あらすじはwikipediaとかを参照してもらって…なんかwikipediaのあらすじ、くせのある文章ですね…。あらすじというよりは重要なファクトの列挙という感じ。私もあらすじを書こうとしてよくこういう文章を書いてしまうので親近感がわきます。筋をまとめる際に、作中の表現をとりこぼさないように、可能な限り要約せずにまとめるとこうなりますよね。ほんとは読み易くするためにもうちょっと要約した方がいいのでしょうが、そうすることによって削り取られてしまう情報量に後ろ髪を引かれて、こういう「AがBと言った。」みたいな記述の羅列になってしまうこと、あるなあ~。

話がそれましたが、まず私が印象深く感じたのは、この物語が小説家のヤン・マーテル(原作小説の作者)がパイという男性の語りを聞くという形式になっているところです。ドン・キホーテから脈々と連なるメタフィクションアーキタイプですね。好きです。

物語の最後、パイは、トラとの漂流記と、人間との漂流記とのどちらがpreferかとヤンに問いかけます。これはかなり面白いところで、どちらが真実と思うか、ではなく、どちらが好ましいかをパイは尋ねます。この問いかけはずるいというか、そりゃ散々CGをふんだんに使った壮大な映像で長い時間かけてじっくり描写されたパイと動物との神話的物語の方が、暗い病室でごく短い時間で淡々と語られたコックや母との地味かつ陰惨な物語より好ましいと思いますよね。ヤンもトラが出てくるほうがよいと答えます。

冷静に考えると虎とシマウマとハイエナとオランウータンと漂流してきました~なんて話より人と乗っていて色々事件が起こって自分だけ助かりましたって話のほうが信頼に足るもっともらしい話ではあるのですが、"よりよい"のはやはり良く語られた面白い物語であって、これは、少年時代のパイがヒンドゥーの祭りの流し灯籠や荒唐無稽な神話や、田舎のキリスト教会の荘厳な雰囲気や、あるいはモスクから聞こえる言葉の美しさに、つよく心打たれて信仰心を得た体験とかさなるものなのではないかなーと私は受け取りました。

ヤンはこのふたつの物語のどちらを好むかについて「神の話でもある」と言いました。パイにとっての神は、ヒンドゥーの踊りや、キリスト教の建築や、イスラムの祈りの言葉の中にこそ存在し、それは「物語」にも当然ながら宿るということなのだと思います。

ヤンは虎との物語を選び、そしてこの物語はヤンのものとなり、ヤンはこの小説を世に著します。ふたたび物語を紡ぎはじめた彼に訪れたのは「ハッピーエンド」であったに違いないでしょう。

いきいきと魅力たっぷりと語ることによって荒唐無稽な筋書きのお話に命がふきこまれ脈打ち出し、美しく輝く――という、物語ることの魔力を壮大なCGによる映像美とメタフィクション構造で語りきった面白い作品でありました。映画館で3Dでみたらより強い魔法にかかったろうと思います。

 

原作についてもwikipediaでざっと読んでみたところ、虎とボートで漂流するというプロットと「命の輝き」についてはMoacyr Scliar“Max and the Cats”を基にしているそうです。Moacyr Scliarはブラジルのマジック・リアリズムの作家で、Max and the Catsは1981年発表の小説。邦訳はなさそうなのがかなしいところですね。

あと、虎の名前のリチャード・パーカーはこれが元ネタですね。

http://enigma-calender.blogspot.jp/2015/07/Mignonette.html

ポオの小説の登場人物であり、実在の事件の被害者のひとりであり、そしてどちらでも海難事故で人に食べられてしまったという数奇な運命の人物。虎が現実なのか、それとも虚構なのかを問うお話にひっかけるフックとして最高に決まっててめちゃアガりますねこれ。最高。

 

なんかまとまりない感じですがライフ・オブ・パイ、面白かったぞという話でした。これくらい雑な感じで今年はたくさん日記更新していけたらと思います。

アイカツ!コミカライズのぷっちぐみベストシリーズが"凄い"

 

アイカツ!のぷっちぐみベスト!シリーズのコミカライズを読みました。

アイカツ!まんが&まんが家カツドウ! (ぷっちぐみベスト!!)

アイカツ!まんが&まんが家カツドウ! (ぷっちぐみベスト!!)

 
アイカツ!まんが&12星座うらない (ぷっちぐみベスト!!)

アイカツ!まんが&12星座うらない (ぷっちぐみベスト!!)

 

 読む前はふーん?ぷっちぐみ?幼年誌だしな~~という感じで正直ナメてたんですけど、読んだら圧倒的な出来にブチのめされました。

凄い、凄いですこのコミカライズ。

アイカツ!のぷっちぐみベスト!!シリーズは2冊出てまして、「まんが&12星座うらない」にはぷっちぐみ2013年11月号から2014年10月号までの連載が、「まんが&まんが家カツドウ!」にはぷっちぐみの2014年3月号付録の別冊小冊子のために描き下ろされた連作短編が収録されています。

どちらの本のどのエピソードもアイカツ!らしくよく練られていて素晴らしいのですが、そのなかでも特に感動したのが「まんが&まんが家カツドウ!」収録の「キラ☆パタ☆キャワワ♪」というお話でした。わずか8ページの短編なのですが、これがほんとに研ぎ澄まされた凄みを感じる作品だったので、この記事ではこの短編について詳細に語っていきたいと思います。

 

■シリーズ「アイドル7人物語」とは

まず「まんが&まんが家カツドウ!」について説明していきます。この「まんが&まんが家カツドウ!」に収められているのは「アイドル7人物語」というタイトルのもとに描かれた連作短編で、ソレイユの3人とドリアカの4人、合わせて7人のアイドルたちが、デザイナーズアクセサリーコレクション(DCD2014年第3弾キャンペーンレアのシリーズ)のアクセサリーを得る過程をそれぞれ描いたものです。

今回取り上げる第5話の「キラ☆パタ☆キャワワ♪」はタイトルからわかる通り風沢そらが主役の回で、そらがいかにして自らのブランド、ボヘミアンスカイのデザイナーとして「ボヘミアンサークレット」を作り上げたかが主題になっています。

作品のあらすじを紹介しましょう。


■あらすじ

いちごとそらはショーの仕事のために動物園を訪れていました。ふたりがショーまでの空き時間に園内を散策していると、飛んできた一羽の鳥にいちごのカチューシャが掠め取られてしまいます。その鳥を追いかけるいちごは、道中で仲良くなった大きな鳥の助けを借りてカチューシャを取り戻しますが、取り戻したカチューシャは壊れてしまっていました。すると、そらは壊れたカチューシャを即興でアレンジしてアクセサリーを作り、いちごへ渡します。大いに喜ぶいちごでしたが、そうこうしているうちにショーの時間が迫ってきていました。ふたりは大きな鳥に教わった会場への近道を急ぎますが、会場すぐ手前の切り立った急な坂に足止めされてしまいます。途方にくれるそらでしたが、いちごはためらいなくその坂を飛び降りてゆきます。それにつられるように、そらも坂を飛び降り、無事間に合ったふたりは見事にショーを成功させます。後日、この日のいちごの自由な姿に着想を得て、そらはボヘミアンサークレットを完成させたのでした。

 

■作品の美点:華麗な対比
この作品の演出上の要点は、そらのデザインした二つのアクセサリーをめぐる対比にあります。すなわち、壊れたカチューシャを鳥の羽根でアレンジしたアクセサリーと、そらが最後に作り上げたボヘミアンサークレットをめぐって、相似を演出する描写がなされています。詳しく見ていきましょう。

それぞれのアクセサリーについて、「どうやってデザインの着想を得たのか」という質問がそらに投げかけられます。そらの返答は、カチューシャについては「今日は鳥からイメージをもらったの。鳥はきれいで自由で…大すきよ。」、サークレットについては「今回のイメージは…、さい高に自由でキャワワな女の子から!」と答えます。

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カチューシャのアレンジについて(まんが&まんが家カツドウ!P49)

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サークレットのデザインについて(まんが&まんが家カツドウ!P52)

この二つのアクセサリーをめぐる問いかけと返答が対をなしていることは明らかでしょう。「どうやって考えるの?/どうやって思いつくの?」という問いと、「イメージ」をもたらした存在が「きれい/キャワワ」で「自由/さい高に自由」である「鳥/女の子」だというそらの返答。

「鳥/女の子」の対は、ストーリーの中で、いちごに鳥としてのイメージが繰り返し付与されていることによって暗示されています。

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柵をとび越えて鳥のすみかへと入り込むいちご(まんが&まんが家カツドウ!P47)

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「鳥だったらとべる」坂をとび下りるいちご(まんが&まんが家カツドウ!P50)

 

 

 ■作品の美点-対比の乱れ-

さて、先ほど、アクセサリーをめぐる二つのやり取りは綺麗に対をなしていると語りましたが、ひとつだけ対称から外れた要素があります。それは鳥に対してだけ語った「大好き」という言葉です。

ここまで語ったとおり、この短編全体を通して周到にいちごと鳥の対比は用意され、力強く演出されているわけです。そして、そらは鳥が大好きであるわけですから、その鳥と相重なるイメージを持ついちごに対して「大好き」と思っていなかったとは思えません。

むしろ、「大好き」をあくまで対称による暗示に留めることによって、かえってそらの抱く思いのひそやかさと真摯さが感じられるようになっているのではないか?と思います。

わずか8ページながら、織り込まれた美しいパターンとそこから浮き上がるそらの愛情の紋様に魅了されずにはいられない、珠玉の短編。まさかぷっちぐみでこんな比喩を巧みに使った技巧的な物語が語られていたとは…!

 

■驚くべきさらなる仕掛け
これだけでももう十分な傑作といえるこの「キラ☆パタ☆キャワワ♪」ですが、コミックス「まんが&12星座うらない」とあわせて読むと、この「キラ☆パタ☆キャワワ♪」に織り込まれていたさらなる仕掛けに気づくことができます。

「キラ☆パタ☆キャワワ♪」でいちごがつけていたカチューシャは、ぷっちぐみ2014年2月号付録である「ジュエリーハートカチューシャ」(おもちゃ・アイカツカードともに付録)なのですが、「まんが&12星座うらない」収録の第5話ではなんと、「ジュエリーハートカチューシャ」のカードをいちごとあおいが交換しているところが描かれているのです。

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(まんが&12星座うらないP24)

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(まんが&12星座うらないP25)

ということは、そらがアレンジする壊れたカチューシャは、いちごがあおいと交換した、元はあおいのものだったカチューシャということになります。

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(まんが&まんが家カツドウ!P48)

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(まんが&まんが家カツドウ!P49)

つまり、あおいがいちごに渡した親友としての象徴たるカチューシャを、そらは愛情をこめてリメイクしていたわけで、いちごをめぐる3人の関係がカチューシャを介して密やかに描かれていた、ということになります……。いや、本当に凄い、凄い以外の言葉を失います……。こんな心に鋭利に突き刺さるやり口が…幼年誌で行われていいのか…?

 

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(まんが&まんが家カツドウ!P64)

いちごをイメージしてそらがデザインしたボヘミアンサークレットをあおいがすてきと褒めるシーンなどもエピローグ的に描かれており、この物語がいかに周到に描かれているかについては皆さんにも十分ご理解いただけたことと思います。

このかなき詩織先生&小鷹ナヲ先生のタッグが描くぷっちぐみベスト!シリーズ新刊、「まんが&クイズ」は12/2に発売!あかりジェネレーションの面々がどのように描かれているのか。めちゃくちゃ楽しみです。

アイカツ!まんが&クイズ (ぷっちぐみベスト!!)

アイカツ!まんが&クイズ (ぷっちぐみベスト!!)

 

いちそら学序論 I アイカツ!62話における風沢そらの心理

2015/11/16

大幅に改稿しました。

2016/3/14

序論Ⅱの投稿に合わせて、

  • タイトルを変更
  • いちそらと関わりない部分について大幅に改稿
  • その他細々と改稿

いちそらとは星宮いちごと風沢そらのカップリングを指す語です。いちご絡みのカップリングはいち○○となるのがデファクトスタンダードらしいことに最近気づいたので、私は今までそらいちと呼んでたのですが、これからはいちそらと呼ぶことに決めました。そらいちだと"らいち"が混ざってしまうのも懸念ではありましたし。

このレビューは星宮いちごと風沢そらの関係性とはどのようなものかという問いを中核に62話のクリスマス回を読み解いていくものです。とくに風沢そらが星宮いちごのことをどう思っているのかについて深く考察しました。タイトルに序論Ⅰとつけているのはこの62話と64話の福女レース回(序論Ⅱ)と67話の恵方巻き回(序論Ⅲ)との全3回に分けて書くという構想があるためです。でした。が、結局64話と67話をまとめて序論Ⅱとして書きました。

詳しくは各話の項で語りますが、62話から67話にかけてのいちごとそらの関係、とくにそらからいちごへの視線は非常に意味深に描かれているものとして読み取ることが出来ます。"いちそら"というカップリングを本編から読み出すのがこの論の主要な目的ですが、各話についての詳細な読解も平行して試みていくので、カップリングとか興味ないという方にも楽しめる内容になっている、と思います、なってるといいですね……。

 

まずは62話「アイドルはサンタクロース!」について語っていきます。ユーミンですかね。

といってもこの回は12話「WE WISH YOU A MERRY CHRISTMAS」を強く参照するエピソードであり、いくつかの点でこのふたつのクリスマス・エピソードは重ねられています。ここについて深く言及していくため、まず12話についてまとめておきたいと思います。

 

■12話概略

12話のクリスマスツリーにまつわるエピソードは、ストーリーが進むごとにたびたび振り返られる重大なイベントです。とくに大空あかりがアイドルを志したきっかけとして参照されるものであり、アイカツ!のストーリーの中核となっている重要なエピソードといえます。

また、このエピソードが重要であるもうひとつの理由として、このエピソードが、星宮いちごのパーソナリティーと、彼女のアイカツについて、それぞれどのような特徴があるかをとても明快に説明していることを挙げられます。

それでは、この12話から、星宮いちごとはどのようなアイドルなのか、また彼女のアイカツとはどのようなものなのかについて、読み解いてみましょう。

まずは、星宮いちごとはどのようなアイドルなのかについてですが、いちごはこの1年目のクリスマスの時、スターライト学園のみんなが笑顔でクリスマスを楽しめるように、みんなのクリスマスパーティーへの願望、たとえば大きいスピーカーがほしいとか、七面鳥を食べたいとかいう願いを、ひとつづつ叶えてゆきました。また、家族と会えずに寂しがる同級生・ユナを慰めるために巨大なクリスマスツリーを用意しました。あおいはいちごを評して、「あとは、困ってる人をほっとけないんだよね」と語ります。12話の最後、みんながパーティーを楽しむなか、いちごがサンタクロースの扮装で登場したことに象徴されるように、それぞれが求めているものを与えたり、困っている人を助けたりして、みんなを笑顔にして回りたいという思いが星宮いちごのキャラクターの中核にあることが示されています。

次に、彼女のアイカツとはどのようなものなのかについて読み解いていきます。

12話の冒頭、OP直前に、ひとりでは動かせないほど重たいクリスマスツリーをひとりで運ぼうとするいちごをあおい、蘭、おとめが手伝うシーンが描かれます。これは後の巨大クリスマスツリーをエンジェリーマウンテンに伐りに行く展開を先取りする描写であることは明らかですが、ここで重要なのは、いちごが先んじて始めた行動を周りのみんながサポートしはじめる、という風に描写されているところです。いちごがひとりで運んだり、みんなが同時にとりかかるのではなく、あくまでいちごが始めたことをみんなが手伝うという形になっています。それは、いちごはひとりではできないようなことに挑み、その過程で周りの人から助けが受けられることにより、ついには達成してしまう、そういったアイドルであることの表現であるからです。ツリーに関しても、いちごたちがスターライト学園を出発して木を伐りに行って帰って飾り付けを終えるまでの全ての過程で、いちごの力だけではどうにもならない状況を周囲の人たちのサポートによって切り抜けていく様子が描写されてゆきます。ひとつひとつ見ていきましょう。

巨大ツリーを用意することを請け負ったいちごたちはまず、木を伐採するための斧を涼川から受け取ります。行く当てもなくうろついていると、TVディレクターの井津藻見輝が車を出してくれます。行き先をエンジェリーマウンテンと決めたら、天羽あすかに電話をかけて許可をとりつけます(明示されてはいませんが、おそらくはあすかに許可をとったものと思われます)。木を伐り始めたときは傍から撮っていただけの井津藻でしたが、伐り倒した木を運ぶ際には彼も手伝います。斜面を滑り降り、山のふもとで学園までどう運ぶか悩んでいると、植木屋が現れ、車に積んで学園まで運んでくれます。ステージの時間に追われて飾り付ける時間がなくなってしまいますが、飾り付けは学園の他のアイドルたちと涼川とジョニーがやってくれます。

いちごの「巨大ツリーを学園に立てる」というアイカツは、周囲の大人たちのサポートによって初めて成立したものであることがわかります。特に、ツリーのあるエンジェリーマウンテンへといちごたちを連れて行った井津藻ディレクターと、ツリーを運んだ植木屋の助けは不可欠なものでした。この二人については、井津藻ディレクターが切り倒した木を運ぶ際には一緒にアイ、カツ!と声を出しながら木を引っ張る、あるいは植木屋がいちごたちの斧が鳴らす音に反応して気にかける、などの描写があり、これはいちごの頑張りを見ていると大人も協力したくなる、という大人側の心理を顕著に表すものです。

「普段のアイカツにも、デザイナーさんとか、ヘアメイクさんとか、カメラマンさんとか、ステージの準備をしてくれるスタッフさん、プロデューサーさんやディレクターさん、他にも大勢のスタッフがいて、みんなで一緒にアイカツしてるんだよ」

とは、80話・ブートキャンプ回でいちごがあかりに対して語ったことですが、ここで語られている、周りの人との協働関係も含めたアイカツこそがいちごのアイカツであるということが、まず12話において強固に、またツリーという明確なシンボルを擁するかたちで示されているのです。

12話にはもうひとつ、いちごのアイカツについての象徴的表現ととれるところがあります。それは、いちごが調理して皿に盛ったチキンライスをおとめがつまみ食いしはじめ、それにつられるようにしていちごもぱくぱくとつまみ食いしているところを蘭に見つかって「作ってんのか?食べてんのか?」とたしなめられたふたりが、満面の笑顔で「両方!」と返すところです。これはいちごたちが作りながら同時に食べてもいる、つまりセルフプロデュースを行いながら、同時にそれを楽しむようなアイカツをしていることを示しているのです。

12話においては、みんなを笑顔にしたい、困っている人をほっておけないといういちごのキャラクター性をサンタに擬えつつ表現している点、また、みんなを笑顔にするための頑張りを周囲の人たちのサポートの上で行う、協働するアイカツこそがいちごらしいアイカツであり、それによってツリーを立てることができた点、そして、いちごのアイカツとはいちご自身をも楽しませるセルフプロデュースであることを示している点の3点が、重要な要素として描かれました。それぞれがサンタ、ツリー、調理/食事という象徴を伴って描かれたことも重要です。

 

■62話の論の進め方

話を62話に移します。この論では、62話におけるそらのクリスマスパーティーに対するデザイン手法について、また、動機について考察を加えることにより、そらのデザインからいちごに対する深い知識や強い興味を読み取ることができることを示します。

 

■そらのひらめき

まずはそらのパーティーのデザインについてみてみましょう。そらのデザインがどのような経緯で成立したのかについて、そらが自分の部屋で天羽あすかと星宮いちごが出演するテレビ番組を観ているシーンから読み取れます。詳しくみていきましょう。

あすか「私は、この世界を楽しく、幸せにするためのものなら、どんなものでもデザインしたいと思っています。ドレスにケーキ。」

(そら、「あっ」とかすかな声を出しながら画面へと振り向く。荷物を運ぶ作業を止め、画面に見入りはじめる)

あすか「そのほかにもいろいろやりたいわ。デザインに境界線、つまり、ボーダーはないんです」

そら「デザインにボーダーはない」

(アナウンサーの誘いによって、ジングルベルのラブリーサンタスカートを着たいちごがキラメキドレスケーキを台に載せ運びこむ。ひとしきりいちご人形を載せたケーキの紹介をする)

あすか「とってもおいしいケーキなのよ。ぜひみなさんに召し上がっていただきたいわ」

(とあすかが語るところから視点がスタジオからそらの部屋へと移り、あすかはテレビに映されたかたちで描かれる。そらとセイラは真剣にテレビを見る。笑顔のいちごが映る)

いちご「はい。今年のクリスマスパーティーは、みんなでこのケーキを食べます」

(そら、映るケーキを見ながら、)

そら「あのケーキ、いい。ん……でも。クルクルキャワワ。んー……」

(しばし熟考するそら)

そら「うん」

セイラ「何かひらめいた?」

そら「うん」

そらがパーティーとケーキのデザインについて、このテレビ番組からひらめきを得たように描かれていますが、このそらのひらめきとはいったいどのようなものであったのでしょうか。ドリアカ・クリスマスパーティーのデザインをする、というところからスタートして、スターライト学園とドリームアカデミーとの合同パーティーを開催しながらそこで超特大いちごちゃんケーキを製作する、というゴールへと至るまでには、いくつかの思考の飛躍があるように思われます。

この飛躍を埋める取っ掛かりとして、そらがケーキに「でも」と不満を感じているような素振りをみせていることについて考えることが有効だと考えられます。そらはあすかのキラメキドレスケーキを基本的には「いい」と肯定しながらも、どこかに否定的な要素を見出し「でも」の述べています。そのそらが否定する要素とはなにでしょうか。

それを推理するため、あすかのケーキと、それを基にそらがデザインし直した巨大ケーキのスケッチとを比較してみましょう。そらのスケッチでは、あすかのケーキに感じた不満点が解消されているはずですので、これらの比較は有効であると考えられます。

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二つのケーキの違いをみてみましょう。ひとつは大きさです。もうひとつはケーキの柄で、もうひとつはいちご人形の姿、特に腕の位置です。あすかのケーキでは胸の前で腕をクロスする姿ですが、そらのスケッチでは腕をおろして腰のあたりで開く姿で描かれています。更にもうひとつの違いが、背景の星を冠したツリーと中空に浮かぶ星の存在です。そらは元のケーキにはなかった「星」というモチーフを、新たに導入しています。

この四つの違いがあすかとそらのデザインの違いなのですが、ここで、ケーキの頂点に収まるのが「星」を名にもつ「星宮いちご」の人形である――ということを踏まえてこのスケッチを見てみますと、「星」宮いちごを頂点に置く巨大ケーキと、「星」の飾りを頂点に置く背景のツリーとが並置されていることがわかります。そこから考えると、いちご人形のなだらかに下ろした腕とケーキがつくるシルエットと、背景のツリーのシルエットとが相似形を作っているようでもあります。

星宮いちごという星を頂点におくケーキと、星を頂点に飾ったツリーとの相似をつくり、それらを並べること。これこそが、このスケッチに表されたそらのデザインの意図であると考えることができます。

そして、ツリーの頂点の星とケーキの頂上の星宮いちごの相似からは、以前のエピソードで語られたあるイメージが強く想起されます。それは53話できいが調べた、いちごがアメリカにいた時の活動のひとつである、クリスマスに巨大ツリーの頂上で光る星の着ぐるみを着たいちごのパフォーマンスのイメージです。

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ツリーの頂点で「星」として輝く、というこのパフォーマンスは、ツリーの頂上の星と「星」宮いちごを重ねあわせるものであり、これはそらのケーキのデザインのアイデアに非常に近いものです。

ここから、そらがいちごの「星になる」パフォーマンスを知っていて、それをデザインに織り込んでいる可能性を読み取ることができます。そらはパーティー会場で初めていちごと対面したときに、「初めて会った気がしない。エンジェリーシュガーを着たあなたをずっと可愛いなって見てたから」と語っており、以前からずっといちごの活動を追っていたと示されています。ですから、そらがいちごのアメリカでのパフォーマンスを知っていてもおかしくはありません。

また、そらのケーキのデザインに過去の自身のパフォーマンスが参照されていることをいちごが理解していることを示すシーンがあります。それは、巨大ケーキを完成させるための等身大いちご人形がないとそらたちが気付いたあと、そらが「いちごちゃん、あの」と語りかけただけなのに、いちごが「そうだよね!私もそう思った」と、そらのアイデアがどんなものかを断定している反応を見せているところです。

ここでいちごはそらのお願いが、「星宮いちご自身がケーキの頂点に立つ」ことであると確信しているわけですが、なぜいちごはこれを確信できていたのでしょうか?

それは、いちごがそらのスケッチブックを見た際に、そのデザインがアメリカでの「星になる」パフォーマンスを参照していることに気づいたからにほかなりません。それゆえにいちごは、そらのお願いが、自分がケーキの頂上で「星になる」ことであると確信できたのでしょう。

そらがいちごのこのパフォーマンスを知っていたのならば、あすかのケーキを見た時に「でも」とこぼすのも理解できます。クリスマスケーキというクリスマスアイテムの頂点に星宮いちごという「星」を配置しておきながら、頂点に星を頂くクリスマスツリーといういちごらしさあふれるモチーフと重ねあわせないデザインに、いちごの熱心なファンであるそらは不満をもったのでしょう。もっといちごにふさわしい表現の仕方があるはず、という思いが、このスケッチへと結実したのだと考えられます。

そらはあすかのケーキに対して不満をいだき、パーティーにおいてケーキとツリーを並べるデザインによってそれを解消しました。パーティー会場のすぐ傍には巨大なツリーがあり、そのツリーの頂点にも星が輝いています。この62話のラストシーンがケーキの上からメリークリスマスと叫ぶいちご→外観のツリーというカットの繋ぎになっていることから、ここにケーキとツリーの並置を読み取ることができます。

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また、そらがツリーの飾り付けと料理の盛りつけとの両方にアースカラーを意識するように指示していたことからも、そらがツリーと、ケーキを食べる食卓とを結びつけようとするデザインを行っていたことが伺えます。

星を冠するツリーと星宮いちごを冠する巨大ケーキの並置。これこそがそらのデザインの「ひらめき」であり、そしてそのデザインの根幹には、星宮いちごのこれまでの活動に対する深い理解があった、ということです。

 

 

そらのデザインのひらめきがどのようなものかについては示せましたが、ここからはその動機、つまり、なぜそらは合同パーティーを行ったのか、そしてなぜケーキを大きくしたのかについて、そらの台詞から考察していきます。

ひとつめの台詞は、ケーキを大きくしたいと天羽あすかにお願いに行ったとき、あすかからなぜケーキを大きくしたいのかを問われたときのそらの返答です。

「クリスマスパーティーは、一年に一度しかありません。だから、パーティーに参加するみんなにも、テレビで観てくれてる人たちにも、最高に大きなハッピーを届けたいんです」

みんなに大きなハッピーを届けたいから大きくしたい、というのが大意ですが、ここには一年に一度しかないクリスマスなのだから、という論理が用いられています。この一年に一度というフレーズは、12話でも近いものが用いられています。それは、いちごがパーティーの実行委員へ立候補したことに否定的な蘭へ、いちごが畳み掛けるように語って説き伏せるシーンです。

いちご「どうしてもやりたかったんだ!楽しいクリスマスにしたいから」

おとめ「はい!」

蘭「だからってさ……」

いちご「蘭はクリスマス嫌い?」

蘭「え?」

いちご「こんがり焼いたチキン!ふわふわのクリームの載ったケーキ!」

蘭「ち、近いから!つか、食べ物のことしか言ってないぞ」

いちご「一年に一回しかないんだよ?私たちだけで夜遅くまでパーティーだよ?すっごい楽しいよ?」

蘭「ま、まあ……嫌いじゃないけど」

一年に一回しかないという殺し文句で相手を納得させる、という点で、62話のそらが天羽あすかに許可を貰いに行くシーンと12話のいちごが蘭を説得するシーンは重なっています。つまり、このそらの台詞は、そらがクリスマスに対していちごと同じように強い想いを抱いていることを示すものといえます。

ケーキについてのもうひとつの台詞は、巨大ケーキの発表をカメラの前で済ませたあと、笑顔のいちごから巨大ケーキという幼い頃からの夢がかなったと感謝のことばをかけられたあとのそらの台詞なのですが、その前の流れも重要なので、ちょっと前のシーンから書き起こしていきます。

(そらときいがテレビカメラへ向けた巨大ケーキの発表を済ませたあと、あおいはケーキを楽しみにするキラキラッターのファンの書き込みをそらときいに見せる。きいはケーキを作る段取りについて、パティシエが来てくれることになっているとそらと話す。そこにいちごが語りかける)

いちご「そらちゃん、ありがとう」

そら「えっ?」

(そら、驚いた顔を見せる)

いちご「小さいときね、クリスマスケーキがすっごくおいしくて、食べるたびに小さくなるケーキが寂しくて、食べきれないくらい大きかったらいいのになって思ってたんだ。超巨大ケーキ!夢がかなっちゃった」

(笑顔で語るいちご。そらも笑顔で応える)

そら「よかった」

いちご「えっ?」

そら「私がケーキを大きくしようと思ったのは、ううん、クリスマスパーティーをデザインしようと思ったのは、そういう顔が見たかったから。自分が作った服で、誰かを元気に、ハッピーにできたらいいと思って、私のブランド、ボヘミアンスカイを作った。この世界を楽しく、幸せにするためのものなら、どんなものでもデザインしたい。ドレスもケーキも、パーティも。デザインに境界線、ボーダーなんてない。」

まず指摘しておきたいのは、いちごの「ありがとう」 に対するそらの「えっ?」と、そらの「よかった」に対するいちごの「えっ?」が対をなしていることです。これはこれはつまり、いちごがそらのケーキによって夢がかなえられたように、そらはいちごを喜ばせたことによって夢がかなえられた、という対称関係を暗示しているものと考えられます。

そして、このそらが語っている内容が、天羽あすかに対して語った内容と基本的には一致しているようでありながらも、天羽あすかに語ったときには「パーティーに参加するみんな」や「テレビで観てくれてる人たち」など、ハッピーを届けたい相手が「みんな」であるように明確に示していたのに対し、こちらの独白では、「そういう顔」や、「誰か」という、指す範囲があいまいな語を用いているという違いがあります。

「誰か」について。これは「自分が作った服で、誰かを元気に、ハッピーにできたらいいと思って、私のブランド、ボヘミアンスカイを作った」というところに現れる語なのですが、これは61話最後の「誰かを元気にできたかな。私のボヘミアンスカイ」というそらのモノローグを踏まえたものであることは明らかです。61話のこの台詞は、そらがボヘミアンスカイお披露目ステージのあと、会場を抜け出してひとり海辺でたたずみミミを想いながら流れたモノローグでした。このとき会場の控室へ向かっていたティアラ学園長はそらのステージによって元気になってはいましたが、そらとの接触は回避されていました。このことから、ここでそらの思う「誰か」に、ティアラは含まれていないものと考えられます。61話でそらが元気にしたかった「誰か」とは、遠く離れてしまって二度と会えないしもはや何も伝えられないはずのミミ、自由を恐れながらも果敢に一歩を踏み出したミミを代表とする人々のことなのです。たとえそらのステージを観て元気になったティアラとそらが会っていたとしても、それはそらに大きな感慨をもたらすものではなかったでしょう。

61話でそらが用いた「誰か」は、「みんな」を意味しない、限定されたごく一部の人々を指す語でした。

だとすれば、「私がケーキを大きくしようと思ったのは、ううん、クリスマスパーティーをデザインしようと思ったのは、そういう顔が見たかったから。」の「そういう顔」もまた、「いちごの笑顔に代表される、みんなの喜ぶ顔」ではなく、「星宮いちごの喜ぶ顔」という、狭く限定された意味として解釈する必要があるといえるでしょう。

そらが「いちごの喜ぶ顔」に特に強い興味を示しているとわかる描写が、あおいにキラキラッターに書き込まれた、ファンのケーキを楽しみにするメッセージを見せられたときのそらの反応と、いちごに夢がかなっちゃったと言われた時のそらの反応の違いです。まず、ファンのメッセージを見たそらのリアクションがこれです。

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次に、いちごに夢がかなっちゃったと言われたときのそらのリアクションがこれです。

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ファンの喜びや期待の声に対してはほとんどリアクションを取らなかったそらが、いちごに夢がかなったと笑顔を向けられたときにはとびきりの笑顔でそれに応えている、という対照がここに描かれています。61話であまり感情が「おもてに出ない」タイプであると描写されているそらが大きく表情を変えて頬を染めているというのも特筆すべきことでしょう。さらに言えば、このシークエンスで描かれるそらの笑顔と驚いた顔は、ノエルがいちごと会って話しているときに見せる表情と似通っていることも指摘できます。

お誕生日おめでとうと言われたノエルの表情。

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ノエルっていうのは…といちごに言われたときのノエルの表情

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いちごに「そらちゃん、ありがとう」と言われたときのそらの顔

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ノエルはいちごの大ファンであり、その彼女と似通った表情の変化をすることから、そらもまたいちごの大ファンであることが暗示されているといえるでしょう。

以上より、「星宮いちごの喜ぶ顔」こそが、そらの見たかった「そういう顔」であり、すなわちそらがケーキを大きくしようと思った理由であり、合同パーティーをデザインしようと思った理由でもある、と考えられます。

そらは、みんなを楽しませたいといういちごと共通のメンタリティも持ちつつ、しかしパーティーとケーキのデザインの根源にはいちごの喜ぶ顔が見たいという動機もあったということになります。これで、パーティーを合同パーティーにした理由について明らかになりました。合同パーティーを開催しないことには、パーティーでいちごを喜ばせることはできません。

いちごの喜ぶ顔が見たい。いちごのアイカツをデザイナーとしてサポートして喜ばせたい。あすかのケーキの、いちご人形を載せるアイデアはいいがこれでは十分にいちごらしさが表現されてはいない。アメリカでの活動を踏まえてケーキをツリーと重ねればいちごのアイカツをより深く表現できるはず。ケーキをツリーのように大きいサイズで作ればツリーと重ねて見てもらえる。巨大なケーキをパーティーで作ろう。合同パーティーをしよう。合同パーティーで巨大ケーキを作ろう。

このような思考の展開こそがそらの「ひらめき」の内実であったと考えられます。

 

いちごを喜ばせたい、いちごを輝かせたいという動機からスタートして、結果としてみんなの手で巨大ケーキを作り上げたというのが62話のそらのアイカツでした。これが12話と比して特徴的なのは、巨大ケーキの製作に大人の手を借りていないという点です。12話ではツリーを運ぶプロフェッショナルとして植木屋が登場していちごたちを助けましたが、62話ではケーキ作りのプロフェッショナルとしてパティシエが登場しながらもそらたちは彼らの助けを得られません。この危機をそらは「みんなで作る」という方針を打ち出して打開していきます。ここに、12話と対比して、自分たちの手で作り出すというセルフプロデュース性がより強く描かれていると見ることができます。

プロデュースという面において、プロデューサーのきいの助けも描かれています。

きいのプロデューサーとしての力が如実に表されているのが、きいが「アイカツクリスマスパーティー」と称して両校合同のパーティーの企画をメールで一斉送信した場面です。メールを受け取ったあおいと蘭は困惑の表情を浮かべますが、パーティーの詳細を知ったいちごは「楽しそう!」と笑顔を浮かべます。ここにもそらといちごのメンタリティの相似が表現されているわけですが、この蘭・あおいといちごのリアクションの対比は続くジョニーと織姫学園長のリアクションの違いでより強調されます。ジョニーのオーバーなリアクションによって、この提案がいかに非常識、言い換えるならば「いかにボーダーを越えているか」が浮き彫りになりますが、織姫学園長は両校合同で行うパーティーが生み出す話題性とそれによってスターライト学園も得をすると評価し、このパーティーを受け入れます。

ここで気にかかるのは、そらが合同パーティーを開催しようとする理由と、織姫学園長が合同パーティーを受け入れる理由が全く異なっているところです。そらは学校の垣根を越えたより素敵なパーティーに魅力を感じているのに対し、織姫学園長はパーティーを受け入れることによってスターライト学園の浴する利益に魅力を感じています。関係者の認識にこのようなズレがありながらパーティーを開催できたのは、ひとえに冴草きいというプロデューサーの手腕のおかげだったと考えられます。「招待されたファンの方々と、テレビを入れての両校合同パーティー」という織姫学園長の台詞から、デザイナーのそらの要求をただ伝えたのではなく、交渉相手である織姫学園長を説得できるだけの要件となるまで練りあげてから提案するプロデューサーとしての仕事を、きいがきっちりこなしていたことが伺えます。

そらのデザインをきいがプロデューサーとして形にするというのが62話で描かれた二人の関係であり、この補いあう関係はパーティーに最初に積極的に関わろうとプロデューサーに立候補したのがきいで(これは12話で実行委員に立候補したいちごと重なる描写)、そらはあくまで任命されて受動的に関わったというところからも見て取れます。きいは、綿密な計画、適切な根回しによって、そらのデザインを現実化するための事前の準備に勤しみますが、現場で起こったトラブルに対してパニックになってしまいます。それを解決するのはそらであったことも、二人の補いあう関係を示しています。

このデザイナーとプロデューサー二人が補いあい作り上げたケーキという土台の上に、アイドルの星宮いちごを載せることによってパーティーが成功する。これが62話で描かれたことであって、つまり、ケーキを作ることとは、アイドル自身のプロデュースによって、アイドルを載せる舞台をつくることの象徴であるということになります。

12話で示唆された料理=セルフプロデュースによるアイカツ、という図式が62話では、ケーキを作る=自らのプロデュースによってアイドルの立つ舞台を作り上げるアイカツ、というものに深められたかたちで描かれました。

62話で描かれた風沢そらのアイカツとは、星宮いちごを載せるためのケーキを作り、そしてそれとツリーを並べていちごを星として輝かせることであり、デザイナーとして人を、特に星宮いちごを輝かせることであったといえます。それは自身がアイドルであることよりも優先される、というのは64話の福女レース回で示されることでもあります。

 

 

 まとめ

・風沢そらはいちごのアメリカでの活動を追うほどのコアないちごファンである。

・そらのパーティーとケーキのデザインには、いちごをより輝かせ笑顔にしたいという動機があった。

・いちごとそらのメンタリティはクリスマスへの思いやみんなを楽しませたいといった面で重なっている。

・自分から立候補したいちごに対しそらはきいに指名される形でクリスマスパーティーに関わった。

・いちごはアイドルでありそらはデザイナーであるというそれぞれの立場が明確に示された。

 

今回、風沢そらがいかに星宮いちごに強い興味を抱いているかを今回示せたと思います。このそらの強い想いがいかにして散るか、というそらの失恋について、続きの序論Ⅱにおいて書いていきたいと思います。

続きの序論Ⅱを投稿しました。(16/3/14)

suekichi.hatenablog.jp

 

 おまけ

改稿前の記事を読んでくださった生姜維新さんから、 このような指摘を頂きました。

 恋人がサンタクロース 松任谷由実 - 歌詞タイム

恋人がサンタクロース」という詞は、「が」という助詞の特徴的な使い方によって、ずっと「ねえさん」の言うサンタは普通にサンタクロースのことだと思っていた少女が、彼女の恋人こそが彼女にとってのサンタクロースだったんだ!と気づいた瞬間の驚きを表現しています。

その後の「本当はサンタクロース」という詞は、恋人という存在が本当にサンタクロースと呼ぶにふさわしい、幸せを届けてくれるものであることを語っています。

少女は自分の身に素敵な恋が訪れることを予感して「そうよ 明日になれば/私もきっと わかるはず」と自分に言い聞かせます。わかる、とは何をわかるのかというと、サビで繰り返される2フレーズのうち後者の部分の「本当はサンタクロース」の部分であり、つまり恋人が私を幸せにしてくれることを初めて理解できるはず、ということを歌っています。少女は「ねえさん」のサンタが恋人であったことはわかっていますが、自分にとって恋人が本当にサンタクロースたりうるものなのかはまだわかっていない、というわけです。

つまり、この曲は、初めて彼氏とクリスマスを過ごそうとする少女がその前日に期待に胸をふくらませている状況を歌ったものと解釈できます。

そして、この62話「アイドルはサンタクロース!」をその詞と重ねてみますと、幼いころとなりに住んでいたおしゃれなねえさんを今も思い出すがもういない、というところが、61話のラストで風沢そらがもういないミミを想っていたところとかさなることから、歌のなかで恋人と深く結ばれる甘い予感に期待をふくらませている少女こそが風沢そらである、というふうに解釈できます。

そして、62話においてサンタのモチーフと結び付けられている人物は星宮いちごただ一人であることも指摘しておきましょう。

TVスタジオにて、天羽あすかのもとに星宮いちごがケーキを運び込むシーン。ここでいちごが着ているのは、12話の最後にあおいとおとめがパーティー会場で着ていた「ジングルベルのラブリーサンタスカート」ですが、62話には他にサンタのモチーフが描かれることはありません。

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風沢そらにとっての恋い慕う人物とは星宮いちごである、ということをこのサブタイトルとサンタのモチーフが暗示しているのではないでしょうか。

(素晴らしい視点と解釈を提供してくださった生姜維新さん、ありがとうございました)

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OP直後のスターライト学園のシーン。一昨年のクリスマスパーティー のクリスマスツリーの木が後に、箸、テーブル、かまぼこの板として転用されたとおとめは語ります。とくに、おとめは箸とかまぼこ板を手にしています。箸は食事するための道具であり、かまぼこ板はかまぼこを調理するための道具です。ツリーと調理/食事は12話で示されたとおりいちごのアイカツを象徴するものであるわけですが、ツリーが調理/食事に関するグッズへと変成させられたことにより、ツリーの示す「協働によるアイカツ」と調理/食事の示す「セルフプロデュースによる楽しいアイカツ」が同根のものであることが示されています。そしてこれは、62話において巨大ケーキという食にまつわるモチーフとツリーが並び立つことを暗示するものでもあるでしょう。

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じゃあテーブルはどうなったんだという話があるんですけど、これは80話のブートキャンプの島のテーブルに繋がってるんじゃないかという、かなり自信のない説があります。

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このテーブルが八角形なのが重要で、このあと、あかりは円形のステージを作ろうとするんですけど、完成したのは八角形のステージでした。

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アイカツの世界において円=八角形なのかもしれないですけど、ちょっと違和感のある、ひっかかるシーンではありました。しかしこのステージがテーブルと同じ八角形であることから、あかりの作るステージ=テーブル=いちごの作ったツリーという連なりがみえてきます…きます?見えてくるような、ちょっと無理があるような…そういう感じです。

ただ、アイドルが立つべきステージをみんなの力で作るという点において80話のステージ作りと62話のケーキ作りは共通のテーマを描いているんですよね。更に言えばスターライトの生徒とドリアカの生徒が共同でその制作にあたっているというのも62話と重なるところです。あかりのアイカツは実は風沢そらのそれと近いものなのではないでしょうか。

そして劇場版において、いちごからの継承のシンボルであるマイクを、あかりがいちごと掲げるのではなく、風沢そらと掲げているところにもそらとあかりのアイカツの近さをみることができる…かもしれません。

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ケーキを作るとはアイドル自身のプロデュースによって、アイドルを載せる舞台をつくることの象徴であると書きましたが、この象徴はたとえば、Lovely Party Collection(3年目後期OP)においても用いられているのではないかと思います。

このOPにはソレイユが作ったケーキの上にピンク、オレンジ、青の3本のロウソクが火を灯して立っているのですが、このピンク=キュート、オレンジ=ポップ、青=クールの3本のロウソクはルミナスを示していると考えられます。キュート、ポップ、クールの3人ユニットはルミナスかぽわプリかのどちらかなのですが、まあルミナスと考えるのが自然でしょう。

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3年目終盤で描かれたのは、ソレイユがプロデュースした大スターライト学園祭という舞台の上でルミナスが輝くことでした。ソレイユが作ったケーキの上で火を灯す3本のロウソクは、まさにそれを表していると考えられます。

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らいち=蘭=きい

ノエル=セイラ=あおい=そら

と表情を2グループにわけて配置してあるようです。(最初観た時意図がつかめなくて蘭の表情で笑ってしまった)

セイラあおいそらの3人はノエルと同様にいちごに強く惹かれているという描写なのでしょうか。

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いちごもらいちサイドに入れてもよさそうかも。

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「まぶし」と言わせるためだけに引っぱり出されるヒカリちゃん…。

ケーキの頂上に着地した星宮いちごを「星」に擬えるために光を浴びるリアクションをしてくれています。あと地下の太陽を引っ張りだすほどきいのイベントプロデュース力が高いとかそういうのもあるのかもしれません。

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いちごの背景のプレートに描かれた雪の結晶ぽいもののうち、五角形のものがいくつか(たぶん4つ)あるんですけど、雪の結晶は五角形にならないんですよね。なにか意図があるのでしょうか。やはり星なのか。

アイカツ!108話「想いはリンゴにこめて」 リンゴにこめられた3つの想い

アニメ「アイカツ!」108話「想いはリンゴにこめて」に登場するリンゴについて考えていきます。

このエピソードでは、氷上スミレがロリゴシックのプレミアムドレスを得ようと夢小路魔夜の屋敷を訪れます。エピソード中に何度か繰り返し「リンゴ」が登場しますが、このエピソードにおけるリンゴは何を意味しているのか、そしてタイトルにある「リンゴにこめられた想い」とは何かについて、この記事では考えていきたいと思います。

 

わたしがこのエピソードを繰り返し見て感じたのは、リンゴを介してスミレが伝えようとしている想いとは、ひとつの意味に還元できるような単純明快なものではなく、いくつかの想いが絡み合ったものである――ということでした。

絡まる想いをほどいていくと、スミレの作る焼きリンゴにこめられた「想い」は、以下の三つの想いへと分解できます。

1.ロリゴシックというブランドに対する理解

2.ロリゴシックと姉に対する愛の結晶

3.ユリカという「白雪姫」と対峙するための小道具

 これら三点について、それぞれ解説していきます。

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1―『理解』について。

ユリカのCM撮影現場にてスミレは、ロリゴシックのダークなイメージと白雪姫という童話の残酷さは合うはずと指摘します。その指摘に対し、ユリカは「あなた、なかなか鋭いわね」とスミレの見識を高く評価します。

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ロリゴシックの持つダークさをスミレがきちんと理解できていたからこそ、魔夜が作る白雪姫モチーフの新作ドレスには、白雪姫にとって毒であるリンゴがあえてつけられているはずと考え、焼きリンゴを差し入れとすることを決めたのでした。

そして、魔夜の部屋にて実際の新作ドレスと対面した時に、スミレは「ついてる!リンゴ!」と喜びをあらわにします。この喜びは、自分のロリゴシックに対する理解が正しいことを確かめられたことによるものでしょう。スミレは、自身のブランドへの理解の正当さを、リンゴを差し入れに選ぶことによって示したのでした。

 

2―『愛』について。

氷上スミレは、姉である氷上あずさとの結びつきが強く描かれているキャラクターです。スミレの習慣である「いいこと占い」はあずさの教えに由来するものですし、スミレにスターライト学園を紹介して受験するよう勧めたのもあずさでした。そして、スミレがロリゴシックに興味をもつようになったのも、あずさからの影響があったためでした。

魔夜の屋敷でロリゴシックに関するクイズを解く際、モデルとしてユリカが写るポスターを見ながらスミレが想い浮かべたのは、姉との思い出です。「ゴスマジックコーデ」のポスターを見て思い出すのは、それを真似て作られたドレスを着る姉の姿ですし、「ブリティッシュコーデ」のポスターを見て思い出すのは、真似て作られたドレスを着た自分に対する、姉の「すっごく可愛い」という賞賛でした。スミレのロリゴシックへの愛着は姉によってもたらされ、姉とともに育まれてきたものでした。

そして、スミレが差し入れとして持っていく「焼きリンゴ」もまた、姉によってもたらされ、スミレの中で育まれてきた料理です。

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スミレにとって、ロリゴシックへの愛と姉への愛は密接に結びついて切り離せないものであり、焼きリンゴはその双方に対する愛のしるしとして選ばれたものだと考えられます。

 

3―『小道具』について。

「スノープリンセスコーデ」は、もともとはユリカのために作られていたドレスでした。CM撮影の際、ユリカが魔夜のドレス作りの進捗を把握していることや、ユリカのもとへ届いた魔夜のメールの文面から、このドレスがユリカのために作られていることが示されています。

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「ユリカに似合いそうな 新作ドレスが出来たよ 見て欲しいんだけど忙しいかな?」

つまり、この「スノープリンセスコーデ」は、魔夜がユリカを白雪姫と見立てて作ったものということになります。

さて、ここで一つの疑問が生まれます。魔夜にとってユリカが白雪姫なのだとすれば、スミレの果たす役回りとは一体何なのでしょうか?もう一人の白雪姫?それとも……?

その答えは、ドラマの展開の流れのなかで、ごく鮮やかに提示されます。白雪姫=ユリカに対応するスミレの役どころは、鏡との問答を行うシーンにおいて、端的に示されます。

魔夜の屋敷にて、スミレが鏡から「鏡よ鏡、世界で一番ロリゴシックのドレスが好きなのはだあれ?」と問いかけられたとき、スミレは鏡の中にユリカの姿を見ます。

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これは、童話の白雪姫において、女王が「鏡よ鏡、世界で一番美しいのは誰?」と鏡に問いかけたときに、鏡が白雪姫の姿を映すくだりを踏襲するものです。つまり、スミレが鏡の中にユリカの姿を見るのは、女王が鏡の中に白雪姫を見ることと明確に対応しています。ここに、スミレ=女王、ユリカ=白雪姫という構図を読み取ることができます。

スミレは鏡の中にユリカを見て、「確かに、今は藤堂先輩には敵わないかもしれない。でも、それでも。いつかはきっと!」と答えます。この「いつかはきっと」は、挿入歌『タルト・タタン』の印象的な一節であり、また20話『ヴァンパイア・スキャンダル』でユリカが魔夜に言った「でも、きっとそうなる」を想起する言葉でもありますが、ここでは、スミレの抱いた”野心”が、童話の女王が持つそれに擬えられて発露されたものとして理解できるでしょう。

童話の女王は世界一美しい存在でありたいと強く願う人物であり、それゆえに、白雪姫を毒リンゴで殺そうとします。「いつかはきっと」世界一美しい存在になりたい――童話の女王が抱くそんな野心と、「いつかはきっと」ロリゴシックを世界一愛する存在となりたいというスミレの野心とが、この台詞で重ね合わせて表現されているわけです。

童話の女王は白雪姫を殺すことによって世界一への野心を満たそうとしますが、対するスミレはどう行動したでしょうか。つづくシーンでの、スミレ・ユリカ・魔夜三者の言動を追ってみましょう。

 

ついに魔夜と対面したスミレは、魔夜にプレミアムドレスを見せてもらい、そのドレスにリンゴがついていることをひとしきり喜びます。そんなスミレに対して魔夜は、「実はそのリンゴ、つけるかどうか最後まで迷ったんだ。だって物語の中では、白雪姫を危機に陥れる毒リンゴ」と語りますが、これを聞いたユリカは、何かに気づいたような、ハッとした表情を見せます。

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ここでユリカが気付いたこととは何でしょうか。

ユリカはロリゴシックというブランドの性質、そのダークさを深く理解しているので、魔夜が白雪姫のドレスへ毒リンゴの意匠をあしらうことに驚いたりはしません。スミレがそう考えたように、ユリカもリンゴがついているのが自然と考えていたはずです。ユリカはむしろ、自然なはずのリンゴに、魔夜が迷った素振りを見せたことにこそ違和感を覚えたはずです。ユリカは魔夜が表明したかりそめの逡巡にひそむ真意に思いを巡らせた結果、何かに思い至ったのだと考えられます。

「ユリカに似合いそうな 新作ドレスが出来たよ」という魔夜のメールと、魔夜の新作が白雪姫モチーフであるという知識から、ユリカは自分こそが魔夜の創作の世界における白雪姫であるという文脈を理解できる立場にいました。であるならば、魔夜の「実はそのリンゴ、つけるかどうか最後まで迷ったんだ。だって物語の中では、白雪姫を危機に陥れる毒リンゴ」という発言について、ユリカは魔夜の文脈に応じた読み替え――白雪姫=ユリカという変換――を行うことができます。

ユリカは、魔夜の発言を次のように解釈したのだと考えられます。

”ドレスにリンゴをつけることは、ユリカに危機をもたらしうるだろう”

スミレがリンゴを選ぶことによって、ユリカに訪れる危機。それは、新作のプレミアムドレスがユリカの手に渡らなくなることに他なりません。魔夜がスミレに問うたリンゴの是非とは、ユリカからドレスを奪うことへのスミレの覚悟をあらためて問うものであるとユリカは気付き、目を見張ったのだと考えられます。

魔夜に問われたスミレは、表情を曇らせます。これは、魔夜の問いかけの含意に気が付いたことの表れでしょう。プレミアムドレスを得るためにはドレスをユリカから奪わなくてはならない。それは、CM撮影の控室でユリカから「あなたもロリゴシックのプレミアムドレスを狙っているってわけね」と言われたときから、わかっていたはずのことでした。

その覚悟が魔夜からあらためて問われます。「白雪姫のドレスにつけるのはどうかな?って」スミレの表情は曇ったままですが、そんなスミレに、ユリカはわずかに微笑みかけながらスミレに優しく返答をうながします。「氷上はどう思う?」

そのユリカの言葉に背を押されてか、スミレは「変じゃありません!」と叫ぶように言い放ち、ドレスのリンゴを、ぎこちなくも力強く肯定します。

高みに立つユリカを超えていくためにプレミアムドレスを必要とするスミレは、ユリカという白雪姫から「世界一」を奪い取るための「毒リンゴ」つきのドレスを肯定したのでした。

そしてスミレは、言い放った勢いのままテーブルへと近づき、持参した焼きリンゴを皿に盛りつけ、ユリカたちへ差し出します。

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ユリカという白雪姫へと供されたリンゴ――。スミレは、魔夜の世界ではユリカこそが白雪姫であることを踏まえた上で、白雪姫を超えてゆこうとする女王としての自分を、毒リンゴの含みをもたせた焼きリンゴをユリカ=白雪姫へ差し出すことによって表現してみせたのでした。

ユリカはスミレが屋敷へ入る前に、ロリゴシックのプレミアムドレスを着る者の条件について、「このブランドを愛し、理解し、その世界の住人になれる者だけ」と語っています。

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スミレが焼きリンゴにこめた想いは、その条件全てに応えています。

「愛」について。スミレにとってはロリゴシックへの愛は姉への愛と深く重なるものであり、その姉から教わった焼きリンゴをつくることによってロリゴシックへの深い愛着を表現しています。

「理解」について。ロリゴシックの作風を理解していることを、白雪姫における「リンゴ」という少し残酷すぎるようなモチーフを敢えて手土産に持って行くことによって表現しています。

「世界の住人」について。ユリカこそが魔夜の世界の白雪姫であることを十分に把握し、スミレ自身が魔夜の世界における女王となろうとしていることを、ユリカという白雪姫に毒リンゴを食べさせようと振る舞うことによって表現しています。

スミレが全ての条件を満たしたことに満足したユリカは、プレミアムドレスをスミレへ渡すよう魔夜に促します。それを受けて魔夜はユリカに「ユリカはいい先輩になったね」という賞賛を送ります。

この台詞によって、いかにユリカがスミレをいかに丁寧に導いてきたかが改めて思い出されます。スミレがロリゴシックへの愛を魔夜へ伝える手段に焼きリンゴを選べたのは、魔夜は甘いモノが好きとユリカから教わったからですし、ドレスにリンゴがついてると確信できたのも、スミレのロリゴシックに対する理解をユリカが「鋭い」と認めたことが影響しているでしょう。焼きリンゴを用いたお芝居めいた表現も、当惑するスミレに対してユリカが微笑みながら「氷上はどう思う?」と促したおかげでできたことであるように思われます。

 

憶測が大いに混じりますが、ユリカは訪問前日、スミレに同伴の許可を与えた後に、魔夜に対してスミレという新しい後輩に新作プレミアムドレスを譲りたい旨とそれに対する謝罪を伝えていたものと考えられます。

「スノープリンセスコーデ」はユリカのために作られたコーデでした。それは、ユリカがドレス制作の進捗を把握していたことや、ドレスのモチーフが白雪姫であることを発表より先んじて知っていたことからも伺えます。魔夜とユリカの二人で、時間をかけて作り上げてきたドレスだったのでしょう。そして、急にそのドレスを後輩に譲ろうとすることが、魔夜に対してどれほど失礼な振る舞いであるかを理解できないユリカではありません。

ユリカは魔夜に無理を言ってスミレへのドレスの譲渡を申し出たわけですが、だからこそ、魔夜に言われた「いい先輩になったね」という言葉がユリカには深く響いたことと考えられます。これはユリカの下した選択に対する魔夜の赦しであり、祝福でもあります。この言葉を聞いた時、ただその時だけは、ユリカの表情が吸血鬼の顔でもなく、先輩の顔でもなく、ただロリゴシックと魔夜を敬愛するひとりの少女の顔になるのでした。

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 ■

スミレの強い想いがユリカの導きによって、リンゴを介して伝わる――

ユリカの先輩としての素晴らしさ、そしてスミレの想いの強さが、技巧に富んだ脚本と繊細な演出によって描き切られたこの108話は、間違いなくアイカツ!を代表する名エピソードのひとつといえるでしょう。

 

 

その他各部

このエピソードは20話「ヴァンパイア・スキャンダル」と、89話「あこがれは永遠に」を踏まえた内容になっていますので、その2話を見返してから観るとまた一段と面白く観ることができると思います。

ユリカ=白雪姫、スミレ=女王として捉えると、序盤のスミレによるにんにくラーメンの差し入れもまた、『女王が白雪姫に毒リンゴを食べさせる』ことのメタファーであると捉えることができます。吸血鬼のユリカにとってにんにくが毒であるともいえますし、20話「ヴァンパイア・スキャンダル」において、ユリカにんにくラーメンの出前を受け取っている写真がスキャンダルとして週刊誌に載ったことを踏まえれば、ユリカに対して、にんにくラーメンは強い毒として機能するものということになります。

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(20話のスキャンダル記事。この記事は89話でも言及される)

 

しかし、かつて20話でユリカを苦しめたこの「毒リンゴ」を、ユリカは髪をおろし、素のユリカへとキャラをパッと切り替えて平らげてしまいます。

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この素のキャラをためらいなく見せられるユリカからは、知り合ったばかりの少女に素の姿を見せて勇気を与えたエピソード(89話)が思い出されます。

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89話のCMの撮影で、ユリカがロリゴシックとハッピーレインボーという異なるタイプのドレスを巧みに着こなしていたことが端的に示すように、ユリカは吸血鬼と素の少女の異なるキャラクターを行き来しながら、どちらもきちんとユリカであるというように振る舞えるようになっています。

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成長したユリカのもつこの強さが、108話のユリカがスミレに新作のプレミアムドレスを譲れる余裕の下地となっていると考えられます。

20話の時はスキャンダルと立ち向かうためにどうしてもプレミアムドレスを必要とするほど弱かったユリカが、89話では自分から素の姿をさらすことができるほど強くなり、そして108話ではにんにくラーメンという自分を窮地に陥れかねない毒リンゴさえも平気に平らげることができるようになっている――という描写のうちに、もはや後輩にプレミアムドレスを譲っても大丈夫なほどにユリカは強いということが示されているのではないでしょうか。

102話の時点のスミレにとって、アイカツ!とは、他の人と衝突し、傷つけ合うものでした。そのため、スミレは他人を恐れながらアイカツをする、ひとりぼっちの少女でした。しかし、あかりとの出会いをきっかけに、スミレは誰かとアイカツをする喜びを知ります。このスミレの成長がなければ、スミレは「おかしくありません!」と叫ぶことはできなかったでしょう。毒リンゴの肯定はユリカとの衝突を意味します。他者との衝突を恐れながらも、立ち向かい乗り越える喜びをあかりと共に知ったからこそ、スミレはリンゴを力強く肯定することができたのです。

また、スミレが臆病さを克服するという構図が、144話のドッキリ回(魚を克服)でも再び示されていたことから、この「臆病の克服」を、スミレというキャラクターの成長の主軸とみることが可能でしょう。

DCDアイカツ!における白雪姫のロマンスを持つコーデは以下の5種。

ウィキッドミラーコーデ

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ガーリードワーフコーデ

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スマイルドワーフコーデ

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ポイズンアップルコーデ

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スノープリンセスコーデ

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スノープリンセスコーデ以外のものに目を向けると、コーデのモチーフは魔法の鏡、小人、小人、毒リンゴ、となっていますが、主要な登場人物であるはずの「女王」をモチーフとしたものがありません。

この役柄のチョイスは、スノープリンセスコーデが「白雪姫」と「女王」の両者が着られるドレスであることを暗に示すものと考えられます。

白雪姫のためにデザインされたドレスを女王として着る。スミレが見せたそんな新しい可能性にユリカも魔夜も心を動かされたからこそ、ユリカは「私、氷上スミレがあのドレスを着てるところが見てみたい。魔夜さんもそう思ってるんでしょ?」と魔夜に語り、魔夜も「あなたに任せる。上手に着こなして」とスミレにドレスを託したのではないでしょうか。スノープリンセスコーデを女王として着ることは、白雪姫のためのドレスというデザインからの逸脱ではありますが、その逸脱をも認めてドレスを託す魔夜の姿勢が「あなたに任せる」の一言にこめられているとも考えられます。

フォトカツの PR[恋するリンゴ]氷上スミレ はスミレがスノープリンセスコーデを着ているのですが、鏡のこちら側と向こう側で違うポーズ・違う表情となっているのが印象的です。

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無垢な笑顔を浮かべる少女と、鏡の向こうに居る妖しげに微笑みながらリンゴ片手にその少女を横目に眺めるもう一人の少女、というのは、白雪姫とそれを鏡の向こうから見つめてリンゴを食べさせようとする女王、というイメージとぴったり重なるものではないでしょうか。ここからも、スノープリンセスコーデが白雪姫と女王の両者のイメージを併せ持つドレスだと考えられます。

これめちゃくちゃ欲しいんですけど引けてないんですよね……。引きたい……。PR4%またきて……。

魔夜の館でスミレたちの前に立ちはだかる試練たちは白雪姫をモチーフにしたものが多いですが、それらの内実は20話の時にユリカの前に立ちはだかったものと似通っています。急に現れて驚かせてくるネコ、老婆を羽交い締めにする仲間、驚かせる役のアルバイトが実はアイドルファン、壁の向こうからのマイクを使った試練、という要素が共通しています。

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上から20話、89話、108話でユリカ様が見せる笑顔。かわいい。

『タルト・タタン』のステージの最後、鏡が割れる描写があります。白雪姫のヴァリエーションのひとつに、物語の最後に鏡が割れて女王が死んでしまう、というものがあります。108話のスミレが白雪姫における女王であることからすれば、これもまたロリゴシックらしい、ダークな表現というふうに見ることも可能かもしれません。が、103話のステージなどと比較するとその解釈はちょっと違うかな、という感じがします。

『タルト・タタン』は103話→108話→117話と3つのステージで用いられる曲で、その3つのステージでそれぞれ表現が異なっています。目立つ差異は「反転」です。ごちゃごちゃテキストを観てもピンと来ないかもなので、比較動画を貼っておきます。これを観ながら読んでもらえるとわかりやすいと思います。

 

www.youtube.com

 

103話

初め:向かって左にリボン。

スペシャルアピール後:衣装が反転。ダンスの振り付けも反転。

鏡に触れる:衣装も振りも戻る。

最後:鏡が割れる。

 

108話

初め:向かって右側にアップルクラウン。

スペシャルアピール後:衣装が反転。ダンスは反転しない。

鏡に触れる:衣装が戻る。触れるときにウインクする。

最後:鏡が割れる。

 

117話

初め:向かって右側に帽子、衣装の右側にリボン。

今まで木の影に隠して見せなかった「読み取れない万華鏡」の振りをきっちり見せる。

スペシャルアピール後:衣装、ダンス共に変化なし。

「彼は私を」のところで、180度転回し、鏡に向かって踊り始める。

「好きになる~」のところで、カメラが鏡に映るすみれの瞳にズーム。

 →瞳がフェードしていき、反転した衣装をまとったスミレが映る。ダンスは反転せず。

鏡に触れる:衣装が戻る。これまでとは違い、鏡の中の自分を見るのではなく、鏡の横からスミレを撮っているカメラに目線をやっている。

最後:カメラが鏡の裏側に回りこみ鏡を映すと、あたかも鏡が透明な硝子になったようにスミレを映す(衣装も振りも反転せず)。

背景には合わせ鏡がスミレを挟んでいると思しき光景が映される。

 

・103話verと108話verの差

103話と108話の主な違いは、103話はスペシャルアピールの後に衣装と一緒にダンスの振付も反転してしまうが、108話は衣装だけが反転してダンスは反転しない、というものです。衣装が反転していることから、これらのスペシャルアピール後のシーンでは「鏡に映ったスミレ」を映しているのだと思われますが、その場合ダンスも反転している方が自然なはずです。つまり、103話ではスミレは普通に踊っていて、それが鏡に映ったものをカメラが写しとっているが、108話では、スミレはスペシャルアピール後、敢えて左右逆の振り付けで踊っているということになります。これは何を意味しているのでしょうか。

これは、スミレがカメラが何を写しているかを理解し、それに合わせて動きを変えられるようになった、ということを意味しているのではないでしょうか。

 

・108話verと117話verの差

117話ではほとんどのカットでカメラの位置が変更されています。最も特徴的なのは「読み取れない万華鏡」の振りが今まで見えないように物陰で隠していたのが見えるようになっていることでしょう。これは117話verの最後のカットが合わせ鏡のスミレであることと、万華鏡が複数枚の鏡を組み合わせた合わせ鏡の一種であることとの重ねあわせであるとみることができます。『鏡』というオブジェクトに対して、117話のスミレが習熟していることの表現といえるでしょう。最後のシーンの鏡だったはずのものが、あたかもマジックミラーであるかのように透過してスミレの姿を映し出すのも、『鏡』とスミレの関係の発展を示す描写と思われます。

また、103話と108話の間にあった『カメラ』についての習熟も更に進んでいます。それを示すのが、鏡に触れるところの描写の差異です。108話では鏡に写った自分に対してウインクをしていますが、117話では鏡の脇にあるカメラに目線をやっています。その他にも117話verではカメラの位置を強く意識したカメラ目線などが多く見られることから、『鏡』と同様に『カメラ』とスミレの関係もまた発展しているといえるでしょう。

 

・これらの違いは物語とどう関連しているのか?

というのを姉のあずさとスミレの関係、あるいは歌とモデルのどちらを選ぶかの問題などから考えてみたのですが、うまく説明できるような理屈が考えつきませんでした。単純にスミレがステージに習熟した、というだけにしてはかなり細やかな描写なので、何らかの意図があるとは思うのですが。ひとまずはこれからも考えていく課題として残しておきたいと思います。

 

追記:「アイカツ!ステージビジュアルブック」のインタビュー記事にて、3DCGディレクターの北田伸氏がタルト・タタンの3回目の演出について、

「1回目と2回目はデータカードダスと同じ演出にしたんですが、3回とも同じ見せ方にしてしまうと飽きられてしまうと思ったので、3回目は合わせ鏡を取り入れるなど大きく演出を変えたんです。本当にそれだけで、あまり深い意味をもたせていませんでした。」(P99)

と言及してらっしゃるので、合わせ鏡については深い意図はないということのようです。はっきりしてスッキリしたような、肩透かしを食ったような……。

『Angelic Angel』からみる劇場版ラブライブ!


【試聴動画】『ラブライブ!The School Idol Movie』劇中歌「Angelic Angel」

 

劇場版ラブライブを語るとっかかりとして、公式に試聴動画が公開されている「Angelic  Angel」のステージについて考察してみたいと思います。確かめてないのですが、この試聴動画が劇場版のステージの映像と同一であるという前提のもとで、このテキストは書かれています。もし異なっていたらごめんなさい。

 

このステージの舞台はタイムズスクエアとセントラル・パークの2箇所であると思われます。タイムズスクエアは世界でも屈指の看板の広告料が高いエリアとして知られています。μ’sを、そしてスクールアイドルを宣伝するにはうってつけの場所でしょう。セントラル・パークは作中で訪れていると思しき公園で、メンバーの誰かがここでライブするのも良いという感じの発言をしてた気がします(うろおぼえ)。

 

Angelic Angel」におけるタイムズスクエアの背景には様々な広告がありますが、その中でも目立つのが実在するミュージカルのパロディの看板群です。『THE TIGER QUEEN』は『THE LION KING』、『JEWELRY GIRLS』は『JERSEY BOYS』、『PiCKED』は『WiCKED』、仮面と『PHANTASY』は『The PHANTOM Of The OPERA』のパロディであると考えられます。他の看板についてもそれぞれ元ネタがあると思いますがとりあえずわかる分だけ列挙してみました。

ラブライブでは、TVシリーズにおいても「ミュージカル的」表現が度々用いられました。とくに1期1話の「ススメ→トゥモロウ」、2期1話の「これまでのラブライブ! 〜ミュージカルver.〜」、そして2期13話の「Happy Maker!」の3曲はミュージカル的な表現と感じるところです。

何を以って作中のシーンをミュージカル的と見做すかについてですが、ここでは

「歌に合わせた踊りや動きなどを含みつつ場面が展開していくが、ストーリーの展開上歌の流れる蓋然性が低い」

ものをミュージカル的と呼びたいと思います。例えば、1期1話の「ススメ→トゥモロウ」はストーリー上歌う蓋然性が低いのでミュージカル的、2期13話の「愛してるばんざーい」や、2期1話の「ススメ→トゥモロウ」などは、ストーリー上歌う必然性が高いからミュージカル的ではない、2期13話の「Oh, Love&Peace!」はやや唐突な楽曲の挿入ではあるが音楽に合わせた踊りや動きがないのでミュージカル的ではない、ということになります。

さて、この分類に則れば、劇場版で流れる各学年の楽曲「Hello,星を数えて」、「?←HEARTBEAT」、「Future style」を用いた劇場版のシーンはどれもミュージカル的であるといえます。劇場版は、ミュージカルを演出のひとつの手法として用いながら、背景(とくにNYの背景)にミュージカルのポスターを繰り返し配置しており、ミュージカルというものに対し強い言及を行っていることは明らかです。これは、TVシリーズのラブライブ!と連続性をもってなされた表現であると考えられますが、それではラブライブ!においてミュージカル的であることとはどのような意味を与えられた表現なのでしょうか?

 

それは、製作者側からミュージカルであることが唯一明確に示されている2期1話の「これまでのラブライブ! 〜ミュージカルver.〜」のシーンから読みだすことが可能です。このミュージカルのシーンについて、実際の穂乃果は壇上で固まって何も言えなかったことを海未は指摘します。ミュージカルとして描かれたのは現実とは異なる虚構の生徒会長就任挨拶であったという指摘であり、ここから、ラブライブ!作中においてミュージカル的展開とは、作中の現実とも乖離した、虚構性の高い時空間を示すものであると捉えられます。

 

劇場版における「ミュージカル」ですが、シンガーが歌っていた場所の背景にもミュージカルのポスターが描かれています。おそらく二人が出会ったのもこのタイムズスクエア付近だったのでしょう。多くの劇場が建ち並び、街中にミュージカルの広告が溢れる、現実と虚構が混じりあう街。それは、アニメやゲームの看板がそこらに貼りだされている秋葉原と似ているような――そんな街。だからこそ、穂乃果はシンガーと出会うことができたのかもしれません。シンガーは穂乃果を除くμ’sの他のメンバーには捉えられず、またシンガーから受け取ったままのマイクについても、誰にも見えていないかのように、話題の端にも取り上げられません。シンガーとマイクは作中においても虚構的存在であり、穂乃果はタイムズスクエアでそれと、刹那だけ触れ合ったのでしょう。

 

さて、以上のことを踏まえてAngelic Angelのステージについて考察していきます。

このステージの背景において、奇妙な対応をみせている1対の看板があります。

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サビに入るところで映される舞台右上の「PHANTASY」の文字と仮面が描かれた看板と、

 

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舞台左側にある「PHANTOM SMARTPHONE」の看板です。

PHANTASYは元ネタがオペラ座の怪人、「The Phantom of The Opera」でしょうし、それとその元ネタの「Phantom」を対になる形でステージを挟むように配置してあることには何かしらの意味があると考えられます。phantasy=幻想。phantom=幻影。これらの看板は、このタイムズスクエアにおけるステージの虚構性を示しているのではないでしょうか。実際にステージを撮影した場所はセントラル・パークであったけれども、穂乃果がタイムズスクエアで歌うことをシンガーとの出会いを通じて夢見てしまったから、幻想であるこのステージがスクリーンに映しだされてしまった――穂乃果の夢見た、穂乃果の華々しい生徒会長就任挨拶のミュージカルをわれわれが観てしまったように―― というのが私のAngelic Angelへの解釈です。

 

「ココはどこ? 待って言わないで わかってる 夢に見た熱い蜃気楼なのさ」

 

穂乃果たちが帰国すると、「Angelic Angel」によってμ’sは大ブレイクしています。それにつれて変わっていった秋葉原の街の光景は、どこか現実の秋葉原と似てはいないでしょうか。街にはμ’sの熱狂的なファンがいて、μ’sが描かれた看板やポスターが並んでいる状況は、2015年の秋葉原と近いものとなっています。「Angelic Angel」という現実と虚構が混ざりこんだ映像がきっかけで、現実世界におけるμ’sへの認識と、ラブライブ世界におけるμ’sへの認識が漸近していくのです。そして指摘される、「夢」である可能性――。この現実と虚構を混濁させる「夢」こそが、劇場版ラブライブを読み込む鍵なのではないか、と指摘したところで一旦論を閉じることとします。

こういったメタフィクション的な仕掛けを用いて、結局この映画はいったい何をやってのけたのか?ということについては、また項を改めて書きたいと思います。

アイカツ!85話「月の砂漠の幻想曲」 そらの理念、蘭の実践

 アイカツ!85話「月の砂漠の幻想曲」は私の大のお気に入りであるキャラクター、風沢そらがメインで活躍する回なのだが、このエピソードを初めて見終えた時には、どうにも腑に落ちない、奇妙な回のように感じられたのだった。

 そのもやもやを解消すべく、85話をつぶさに観返して自分なりにこのエピソードを分析した。その結果、このエピソードをうまく消化するための一筋の道を見つけることができた。それは、風沢そらがもつフェミニズム観、という切断面である。

 85話は、そらが自らの信念に気づき、それを貫こうとする物語として読めるが、その信念とは自らがなりたいと願う「お姫様」の在り方にまつわるものである。そらは姫の衣装の制作に取り組むが、そのデザインには女性を解放しようとするフェミニズム的意図を読むことができる。以下この記事では、風沢そらとフェミニズムについて詳しく語ってゆく。

(17/4/29 編集)

(18/12/28 編集)

(20/06/3 編集)

 

 風沢そらは姫のドレスを二度デザインする。初回のデザインに影響を与えたものとして、イスラム圏の女性の服装について書かれた書籍が描かれている。

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 「イスラム圏の女性は、頭を含めた体全体を隠す服装をすることが多い。衣装の種類としては、アバヤ、ヒジャブ、ニカーブなど、様々。」と開かれた本には記載されている。この記述がそらのデザインとどう関係するのか検討したいところだが、ひとまず先に、この本がどのような文脈でエピソードに現れたかを見ておきたい。

 Bパート・アイキャッチ直後。そらの部屋で、そら、きい、セイラが、そらと蘭が主演するドラマで、そら自身がデザインし、そらと蘭が着用することとなっている衣装のデザインについて話している。このシーンでこの本は映しだされる。

(そらが女剣士と姫の衣装デザイン案のイラストをセイラときいに見せる)

 きい 「姫のドレスはひらひら一杯で可愛い」

 セイラ「そらがこれを着たら本物のお姫様みたいに見えるんだろうな」

(そら、曇った表情で机へ向かって歩き出す)

 そら 「お姫様か…」

(そら、机の前で立ち止まり、首だけ振り返る)

 そら 「二人の中のお姫様ってどういうイメージ?」

 セイラ「それは…美しくて清楚で可憐で」

 きい 「守ってあげたいってイメージ」

 そら 「そっか…」

(そら、曇った表情で机に向き直る)

 そら「色々調べてイメージ通りのドレスが出来たはずなのに」

(そらの机の上が映される。いくつかの資料が並んでいる。イスラム圏の男性の服装、女性の服装についての本がそれぞれ映される(前掲のカットはここ))

 そら 「私のなりたいお姫様って…」

(そらの悩み顔がアップになる。ここで場面転換)

 一連のやりとりから、そらの言う「イメージ通りのドレス」とは、セイラやきいが思うような「守ってあげたい」=被庇護者である姫のイメージにそぐうものであることがわかる。そしてそのイメージが、「イスラム圏の女性のイメージ」と重なりあうものであるように示されている。つまりそらは、姫を被庇護者としてイメージし、そのイメージ通りのドレスをデザインしてみせているのだが、実際のところそのデザインには納得がいっていないのである。

 このデザインは破棄され、新たなるドレスがデザインされる。スターライト学園で目撃した、殺陣に打ち込む蘭の姿に感銘を受けたそらは、「一緒に戦うお姫様」のイメージを基にドレスをデザインし、このドレスを着用してドラマのオーディションに挑む。

 この二着のドレスの比較から、そらの思考が浮かび上がってくるものと考えられる。加えて、ドラマの企画書に記載された剣士と姫のイメージ画も比較の対象としたい。企画書の画とはクライアントの求めるお姫様像を如実に表すものであり、デザインにあたってそらはこの画も参考にしたと考えられるためだ。

企画書のイメージ画、初期デザイン、最終デザインの順に並べ、それぞれ比較してゆく。

・ドラマ企画書のイメージ画

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・初期デザイン

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・最終デザイン

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 まず企画書のイメージ画と初期デザインの違いについて検討する。企画書の姫のドレスはノースリーブ・へそ出しと露出が強めであるが、そらの初期デザインはそうではない。この露出の少なさは、書籍から得た「イスラム圏の女性は頭を含めた体全体を隠す服装をすることが多い。」という情報を念頭に置いたデザインと考えられる。初期デザインではドレスの袖・裾の丈も長く、企画書では半透明だった頭に着けたヴェールも、不透明な布へと変えられている。

 続いて、初期デザインと最終デザインについて検討する。最終デザインでは、ドレスの袖と裾が短くなり、髪を隠す布も取り去られている。そらは殺陣に打ち込む蘭の姿を見たことにより、「守られる姫」から脱却するデザインを狙ったわけだが、このたくらみは、イスラム圏の「女性は体と髪を隠すもの」という規範から敢えて外すことにより表現されたのである。

 つまりそらは、企画書イメージ画を念頭に、イスラム圏での女性のドレスコードを織り込むかたちで初期デザインを描いたが、後にそのコードを意図的に破ったドレスをデザインすることによって「守られる姫」像を棄却し、「女剣士に憧れ、近づこうとする姫」像を表現しようとした、と結論できる。「世間の姫のイメージ」と「イスラム圏の女性」との間に「守られる」存在という共通のイメージを見いだし、守られるばかりであった姫を、髪や体を隠す布を外すことによって解放するように表現したのである。

 

 このそらのデザインを、西洋的リベラル・フェミニズム理念に基づくイスラム女性へのまなざしのあらわれとみることが可能だろう。女性が髪や体を隠すのは女性を守るために必要なことである、という考えはイスラム社会においては一般的なものだ*1

 そのムスリムの考えに基づくヒジャブやブルカ、ニカーブといったイスラム女性の服装は、リベラルさを追求する西洋のリベラル・フェミニズムの視点からは、イスラム社会による女性への抑圧のシンボルとして解釈されるようになった。フランスにおいてブルカ禁止法が2010年に制定されたのは記憶に新しいが、この法制定の根拠はライシテ(フランスにおける世俗主義、公共空間における非宗教性の追求)の概念と、女性解放の文脈の二本柱であったようだ*2

 この公正さを追求するためにブルカを排斥するというやり方には疑問の声もある。女性のブルカを禁止しても、女性にブルカの着用を促すコミュニティの思考体系が変わらない限りは、かえって女性を家に縛り付けることとなってしまう、という批判がある*3

 ブルカというシンボルのみを槍玉に挙げても、イスラム社会の男性本位さ、女性差別に対する本質的な批判とはならない――これがフランスのケースから得られるひとつの論理的帰結であるが、『アイカツ!』68話において風沢そらが直面する問題は、このフランスの事例をなぞるものとしても読むことができる。

 前述のとおり、風沢そらは姫に負わせられた「被庇護者」という固定観念からの解放を意図してデザインを修正した。そしてドラマオーディション中、そらはその思想をより鮮烈に表現すべく、剣を手にとって戦うというアドリブをみせる。だが、そらの取ったこのアクションに対し、ジョニーは「そんなへっぴり腰じゃ野菜も切れナッシングだぜ」と揶揄し、殺陣の師範も「しっかりアクションを仕込む時間は用意してくださいよ」と皮肉めかして言う。

 ここで浮き彫りとなるのは、ジョニーや殺陣の師範が評価において何よりも優先するのは殺陣の出来栄えであり、そらの持つ女性解放の理念などではないということである。そらは「守られる姫」という観念をドラマを通じて取りざたしたいのだが、その論点は、ジャッジを行う側の人間である師範には理解されない。ひょっとしたら理解しているのかもしれないが、それでも彼は殺陣の出来栄えを優先し、そらに対し抑圧的な態度を取る。監督が面白いとコメントしているのは救いであるかもしれないが、のちに監督の理解も浅いことも明らかになる。

 このそらと師範の関係が、フランスにおける事例と重なるものだ。イスラム女性がライシテの理念を受け入れブルカを外そうとも、彼女の属するイスラムのコミュニティがその姿で外へ出ることを許さなければ、結局のところその平等の理念は実践され得ないのと同様に、ドラマのオーディションを行う側の意識が変わらなければ、そらの表現が広く世に出ることはないのである。

 そらはフェミニズム的理念をデザインとして表現し、オーディションで問うことまではできたのだが、それを異なる評価基準が支配的である領域において押し通し、実践するだけの力は持っていなかったのだった。

 そのそらを助けるのが紫吹蘭である。蘭はアクション本位のドラマ価値観の中でオーディションを勝ち抜くために修行を行った。重要なのは、これまで蘭がモデルやアイドルとして表現の根幹としてきた「ウォーキングの立ち姿」や「ダンスで鍛えたステップ」が、修行の過程で師範に厳しく否定されてきている点である。蘭はこれまでモデルとしてのキャリアで美しさの表現に磨きをかけてきたが、その女性的魅力の発露は、ドラマの殺陣において抑圧されてしまう。

 この女性的魅力の抑圧は、そらのデザインにおける、髪・体を隠すコードとパラレルなものである。女性的魅力を抑圧しようとする力が、蘭には殺陣における論理として、そらにはドレスコードとして、目の前に立ち現れてきているというわけだ。

 そらはヒジャブを廃するというアプローチを取ってこの抑圧に抵抗するが、蘭は殺陣の論理を受け入れて殺陣の精進に努める。蘭は師範の言いつけを守る殺陣の技術でオーディションを進めてゆくが、最後の最後で見せる「魅惑の刃・幻想剣」は、これまで蘭が抑圧されてきた自らの女性的魅力を爆発させ、師範らを圧倒する。

 幻想剣とは次のような技だ。

(剣をS字を描くように振りながら)

蘭   「魅惑の刃!」

(発光する剣を大上段に構える)

蘭   「幻想剣!」

(ポーズを決めながら静止。ジョニー驚いて目を見開く。蘭、跳躍。ひねり回転を一回転。ジョニーは見とれている)

ジョニー「ビューリホー」

(蘭、両手で剣を握る。ジョニー両手を広げて)

ジョニー「ワンダホー」

(蘭、剣を振り下ろしながら)

蘭   「これで、終わりだ!」

ジョニー「アンビリーバボー」

(ジョニー、光の粒となって消失)

 蘭が見せる、ポーズを決めながらの静止からはモデルで鍛えた立ち姿が、跳躍して回転する動きからはダンスで鍛えた身体表現力が示されているといえるだろう。DCD版のムービーでは剣をS字に動かし技名を叫ぶ→暗転に剣戟のエフェクト→チームアピールチャンス→ジョニー倒れる というシークエンスになっている。このことからも、幻想剣は殺陣の技術とアピールの表現力の複合によって繰り出される技であり、ダンスなどのステージと共通する表現の要素が盛り込まれた技であることを確かめることができる。

  蘭の女性性の魅力がそれを抑圧してきた論理である殺陣と結びついて花開き、その論理を押し付けてきた存在であったジョニーを、師範を圧倒するという展開。この蘭の行動を、社会を支配している規範に入り、その内側から女性を解放していく、女性解放のひとつのプロセスとして読むことができる。

 そらの理念的-デザインと蘭の実践的-殺陣とダンスの融合、という対比、そしてその両者が手を取り合ってゆくことによって、「守られる姫」という課題は解決される――これが85話で語られたことである。そして、その課題についてはオーディションの後に、どう解決されたかが示される。写し出されるのは大きく引き伸ばされたドラマのポスターだ。

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 姫が女剣士に守られる構図である。

 結局、そらの「守られる姫」像からの脱却という理念は、監督に「面白い」と言わしめることはできたものの、ドラマの全体的なコンセプトまでは変えることはできなかったということである。このポスターが、先にあげた企画書における剣士と姫二人の構図とそっくりそのままであることからも、現実は一朝一夕には変わらないという重い結果が読み取れる。

 だが、それと対称的に、続いて流れるドラマのラストシーンと思しきカットは希望に満ちあふれたものである。

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 手を取り合って、幸せそうにどこまでも飛んで行く二人。しかし、そらと蘭の声には、劇中劇性を強調するように、スピーカーから流れるものであるように聞こえるような音響エフェクトがかけられている。これは虚構性を強く演出するものといえるだろう。理想通りに変わらない重い現実と、美しい虚構の対比である。

 しかしその虚構が虚構であるがゆえに、現実を離れた純粋な祈りとして受け止めることができる。理念と実践をそれぞれ携えた二人の女性が手を取り合って三日月と星空の夜をどこまでもゆく、自由で幸福な女性たちの未来――。そんなビジョンを、アイカツ85話というエピソードは、現実の切れ間からそっと見せてくれたのではないだろうか。

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その他もろもろ

スターライト学園で蘭が特訓する際、かえでが斬りかかって来た時だけ、蘭は笑みを浮かべる。

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 なぜ蘭はかえでに対してのみ笑みを浮かべたのか?これを読み解く鍵はJAKにて師範にダンスのステップを批判される際のシークエンスにある。

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いちご「かっこいい!なんだかダンス踊ってるみたいね」あおい「うん!」

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あおい「ウォーキングで鍛えた立ち姿もキマってる」

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師範「ストーップ!」

 ここでは画面が揺らされ、師範の批判が非常に強いものであることが演出されている。

 この批判の後、蘭がすり足で移動するように矯正されているカットが入る。跳躍→すり足という対照。

 蘭にとっての「跳躍」はダンスと結びついた行動であることがここからわかる。つまり、かえでが斬りかかってきたときに笑みを浮かべたのは、かえでの斬撃に対して「跳躍」して避けた、禁止されたはずのその跳躍の楽しさから、つい笑みを浮かべてしまった、というのが理由ではないだろうか。そしてそれは、蘭が幻想剣を、高々とした跳躍で舞い上がりながら笑顔で放つことへの伏線でもあるだろう。

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幻想剣!

 

 オーディション直前、師範に対する二人のお辞儀の角度の違い。

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 そらは軽く目礼、蘭は最敬礼している。師範というドラマ的(=女性抑圧的)価値基準に対する二人の意識の対比として見ることができる。蘭はその価値基準を深く内面化しているのに対し、そらは比較的軽視している。そらは師範が何を言っているかよりも、それに対して蘭がどう応えたについて注目している。

 師範がオーディションについて説明した後、師範の「しっかり見せてもらうぞ」の台詞に対して、蘭は「はい!」と応える。するとそらは蘭の方を向き笑顔を見せる。

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 そらが、蘭が殺陣という自分のメインフィールドではない新しい場所で輝こうと頑張っていることについて、好ましく思っていることがわかる描写だ。

 そらが蘭に向ける好意は、そらが蘭の殺陣の特訓を見ているときに生まれたものである。この好意がどのようなものかについては解釈の幅があるが、剣士という本来男性的である役割を蘭が努力によってつかもうとしていることに対する好意として捉えられると私は考えている。ジェンダーの壁を越えることに対して、そらは非常に好意的である、ということだ。そして蘭に感化されて、そらもまたジェンダーの壁をドレスのデザインによって越えようとするのだ。

 

 

 風沢そらは幼少期をモロッコで過ごした人物であるが、モロッコの「姫」にLalla Aicha(1930-2011)という人物がいる。スルタン・ムハンマド5世の娘であり、国王ハサン2世の姉であるこの人物は、イギリス、ギリシャ、イタリアのモロッコ大使を歴任した、歴史的な活躍をみせた女性である。イギリスではアラブ出身の女性として初めて大使となった人物として話題となり、TIME誌の表紙を飾ったこともある。

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 Nov11,1957,Vol.LXX,No.20のTIME誌表紙。ムスリム女性の解放という題がつけられており、手前の洋装を着て髪を露わにするプリンセス・アーイシャと、奥の全身を布で覆ったムスリム女性の対比が描かれている。

 彼女はモロッコの近代化のために女性の教育の必要性、婚姻関係における法的地位の改善を説き、女性解放に努めた。アーイシャの姿が、モロッコで過ごした風沢そらが抱く「姫」のイメージになんらかの影響を与えていたのかもしれない。

 

 そらと蘭を西洋的リベラル・フェミニストと実践的なフェミニストと読み替える読解を今回行ったけれども、現実のイスラム社会でも、その両者の連携によるフェミニズム運動が盛んになってきているようだ。実践的というのはあまりぴったりくる言葉ではなく、しっくりくる言葉を見つけられないことにやきもきしているのだが、ここではイスラム主義を前提にして、クルアーンイスラムの古典的テクストを男女同権的に読解するという動きのことを実践的と呼んでいる。この動きは、イスラム教徒によるイスラム教徒のためのフェミニズムともいえるだろうか。エジプトのマラーク・ヒフニ・ナシーフ(1886-1918)に端を発し、現在も活動中である著名人としてはモロッコのナーディア・ヤースーン、アメリカ出身のアミナ・ワドゥードなどがこの活動を行っている。

 西洋的リベラルフェミニズムイスラム主義の連携について触れられている記事を2本紹介する。随分と遠くまで来てしまった感があるが、私はここに、アイカツ85話のテーマと共通する問題意識を感じている。

女性の価値が”男性の半分”しかない国 現地の女性活動家が語る、パキスタンのリアル|ウートピ

Fatima Sadiqi on モロッコの、ベールを被ったフェミニスト達 - Project Syndicate

 現実社会との対応といえば、インドネシアでの放送がどのようなものになるかについても今後注目したいところだ。そのまま放送されるのだろうか?→されたようだ(17年4月29日追記)

 

 当初この回サブタイトルを「月の砂漠の狂想曲(ラプソディー)」と書いていたが、正しくは「月の砂漠の幻想曲(ラプソディー)」であった。(指摘していただいた生姜維新さんには多謝申し上げます。)ドラマのタイトルは狂想曲であったので、てっきりサブタイトルも同じかと思ってしまっていたのだった。訂正ついでにラプソディー(rhapsody)について調べてみると、音楽ジャンルとしてのラプソディーに対応する語は「狂詩曲」である。一応ラプソディーを「狂想曲」と訳す例もあるようだが、狂想曲と対応する語はカプリッチオ(capriccio:伊)のほうが一般的のようだ。幻想曲はファンタジア(fantasia:伊)であり、アニメサブタイトル、ドラマのタイトル、どちらとも違和感のある形になっている。狂想曲にラプソディーという語を当てるのはそういう訳例もあるので理解できるが、幻想曲にラプソディーは、何らかの意図がなければまずやらないルビの振り方ではないだろうか。その意図とは何だろうか?

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 仮説をひとつ挙げておく。rhapsodyという語には、(…についての)高揚した感情の表現,熱狂的発言,情熱的な文章 という意味もある*4。85話に描かれる「高揚した感情の表現」といえば他ならぬ幻想剣のことであるだろうし、それゆえに「幻想」曲にラプソディーというルビが振られたのではないだろうか。

 

 

参考文献・URL

イスラームのフェミニズム│mukofungoj ĉiuloke

ロッコを知るための65章 私市正年、佐藤健太郎(編著)第57章「フェミニズム運動」 明石書店 2007年

*1:http://www.aa.tufs.ac.jp/~masato/harem.htm 飯塚正人 ハーレムの外へ ―北アフリカにおける女性の社会進出とイスラーム― より引用:「ムスリムは男女が同じ空間を共有することに異常なまでに敏感であるが、それはなぜか。ムスリム男性が公けに問われた場合、答えは決まっている。すなわち、イスラームは女性の体を傷つきやすいものと考え、これを男性から守るために隔離を実践してきたというのである。」

*2:ブルカをめぐる熱い論争(2): Mozuの囀「ゲラン議員のブログにあった決議提案文の中のモチーフを説明している箇所の訳」より引用:「イスラムのスカーフは宗教への帰属の明白な徴をなしていましたが、ここで我々はこうした実践の極端な段階を前にしているのです。これは誇示的な宗教的表明のみならず女性の尊厳、女性性の表明に対する攻撃であります。ブルカないしニカブを纏うことで女性は閉鎖、排除、屈辱の状態に置かれます。その存在すら否定されるのです。」

*3:ムスリマ(イスラム教徒女性)の衣装を法律で規制するべきか--イアン・ブルマ 米バード大学教授/ジャーナリスト | トレンド | 東洋経済オンライン | より引用:「なぜブルカを禁止するのが好ましくないか、もう一つ現実的な理由がある。真剣に移民の受け入れを考えているのなら、移民ができるだけ自由に公的な場所に出掛けることを奨励すべきだからだ。ブルカを禁止することは、女性を家庭に強制的に閉じ込めることになり、外部の社会との交渉を今以上に男性に依存させることになる。」

*4:rhapsodyの意味 - 英和辞書 - 英語辞書 - goo辞書